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■前回のブログで書いたTVのデジタル化による“見えすぎる感”はその後も少し考えてみた。

S・スピルバーグの映画『A.I』で描かれた近未来の社会では、人間は生身の人間と接するのでなくロボットや立体映像で欲求を満足させている。
まるまるこういう時代がくるかは分からないけど、近づいていることは確かだ。

人間は生き物の1つに過ぎないということを、どこかに置き忘れていて、その傾向が加速しているように思える。

でも、どんな世の中になっても
人が最も興味を懐くのはやはり人だと思っている。

どんなに科学技術が発展しても、最終的には人でしかない。
人の関係、人の反応、人の感情、にどうしても関心がいく。

「いったい、なんのための技術の進歩なのか!?」という意思など関係なく、それ自体が生き物のようにじゃんじゃん発展しつづける。


原始的な部分をおざなりに生きてくことは違うんじゃないか、と。
これは男女間の問題でも生死の問題でも同じ。

とくに生と死では、実際に自分がその立場にならなければ実感ができない社会になっている。
突然自分の身の回りに死が近づくとはじめて意識するような、死とは切り離された社会。
昔はもっと死は身近だった(そうならざるを得なかった)。
身近だからこそそれが自然の出来事として人々の心の中にあった。
避けようのない厳しい現実がすぐ隣にあった。

今はそれを見ないようにもできるし、遠ざけることもできる。
でも、それは消えたわけじゃなく、いずれは確実に自分にもやってくる。
あまりに遠い存在だと、突然あらわれたときに対処ができない。
『異』としてとらえてしまう。
その人は人々から離されてしまう。


デジタル社会は、その便利さと引き換えに何かを犠牲にしている。
僕は便利な道具とはうまく付き合えば、うまく弊害なく活かされると思っている。
しかし、これってその範疇を超えてはいないか?
デジタル化の『便利』と上手に付き合うことができるのがマイノリティーでは、どうなんだろう。

そういう堅実な思考などはほとんど目に留まらないくらいの大群が猛スピードでどこかに突き進んでいる。



ちょっと悲観的かもしれませんね。