■どうも今のドラマで演じている俳優さんたちの演技には馴染まない。

先日、チャンネルを適当に回しているときに、何かのドラマにいきあたった。

2~3人女優さんがめいっぱいの表情で、言い合っている場面だった。
彼女らの表情は大袈裟で、かなり不自然なのだ。
普段の生活で同じような場面があっても、気持ちの中ではいろいろ複雑で激しい思いをするだろうが、あのようにすべて表情に出すようなことはしないだろう。
そのワザとらしい演技を見ていると妙に幻滅してしまい、TVをきってしまうのだ。
あの違和感たっぷりの演出は一体なんなんだろうか?

■ドラマといえば、昔のアメリカの白黒ドラマで『トワイライトゾーン』という30分ものがあった。

これは80年代にS・スピルバーグが映画化したが、このTVドラマは僕が高校生のころに再放送していて、よく見ていた。
『トワイライトゾーン』はストーリーがよく出来ていて、いろいろと奥深い内容で勉強になったものだ。

例えば、今でも覚えているのは・・

ある大会社の社長が異次元空間に迷い込んで、社長になる前の“平”の時代までタイムスリップしてしまう。
この元社長は、そこでも持ち前のエネルギーを出して、じゃんじゃん働いて出世階段をどんどん昇る。そのうち、タイムスリップさせた何者かが現れ、もとの社長の地位に戻してやると言った。しかし、元社長その男はそれを断った。
それは、昇っていく(昇進)過程が楽しく充実しているのであって、念願が叶って昇りきってしまうと、そこには面白みがないというのだ。
欲しいものを手にいれる過程こそが、人生において楽しいことだという。

この話は当時「なるほどなあ・・」と妙に納得してみていた。

■欲しいものはなかなか手に入らない。
入らないからこそ、想像し、工夫するといったイマジネーションが働く。
人の創造行為だ。
頭んなかでさまざまな手段を想定したりして、どうにかして考え抜く。
それでもそう簡単には答えはでない。でもどうしても欲しい。
こういう作用は、人を強く成長させるものだと思っている。
苦しいながらも、がんばって達成しようとする。
こういう、言わば生き物として基本的なことを一生続けていれば、人はボケる暇などないのではないか。

■音楽をやっている人にボケる人は少ないようだ。
それというのは、彼等はより高い次元の音楽表現ができるように生涯をとおして努力しているからだと思っている。
多くの指揮者は死ぬまで現役で、その誰もが“自身の思いえがく頂上”に到達しないままこの世を去る。

そう考えると、満足できるものが身の回りにあるというのは、実はあまり幸せなことではないのかもしれない。

例えば、自分の満足する対象が、家やクルマやブランド品といった“モノ”だとすると、それは比較的簡単に手に入ってしまう。
いまの世の中は、モノが中心になりがちだ。
それはこの国の仕組み(資本主義経済)がそうなっているからである。
購買意欲を刺激してできるだけモノを買わせる。あたかもモノを持つことこそが幸せのように・・(最近はこの傾向にも変化の兆しはあるが、根本は変わっていない)。
TVのCMを観る人はそれを意識に刷り込まれていき、そういうものなんだという錯覚を起こしてしまいがちな環境にいると、僕は思う。

だから、「こんなにモノを持っている私は幸なんだ。」と思い込んでしまうケースがある。
これで満足してしまうと、その後の人生は余生みたくなって、この先生きていることに何か楽しいことがあるのだろうか?となっていく。

そもそもモノというのは単なる手段であって、目的ではないと思うのだが。


いつものように、とりとめのないお話でした(笑)


じゃんじゃん