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ネタバレ有ですのでこれから観る方は読まない方がいいですよ

■イタリアの名匠ジュゼッペ・トルナトーレ監督の最新作。

彼の作品を観るのは『ニュー・シネマ・パラダイス』と『マレーナ』以来3度目。
今回の『題名のない子守唄』は今までで一番素晴らしい映画だった。

しかし・・・じつに厳しい内容。

冒頭からヒッチコック作品を思わせるサスペンスタッチの演出と音楽(バーナード・ハーマンの楽曲を連想させる)。
いったい、このイレーナという主人公とは、どんな女性で、どんな目的でこの家に近づこうとしているのか?これがなかなか解明されないまま終盤まで引っぱる。

トルナトーレ監督は女性の『生』ということへの着眼が強いと思う。
前回の『マレーナ』でもそうだったが、とことんまで女性という“存在”を掘り下げる。しかもそれがとても強い女性像なのだ。
それに、厳しいながらも深いところで愛情を感じさせる演出。
これがないと、観ていられないほど厳しいシーンが多いのだが・・。

また、僕が最も感動したのは、人間関係の新たな可能性が見られたことだ。

イレーナのそれまでの人生は過酷で悲惨な環境で、なんとか生きてきた状況。
そして、テアというわかいい娘を自分の子どもだと思い込む。
しかし、それは残酷にも違うことになるのだ。
その後、イレーナはさまざまな罪で刑務所に入ることになる。
このことは幼いテアには理解できないこと。

・・そして一気に十数年後に時はうつり、イレーナは出所した。
誰もいない荒涼とした寒々しい外の世界。
彼女はふたたびこの地で生きていかなくてはならない。
夢も希望も見いだせないこの世の中で、たった一人で・・・
どこへ行くでもないが、とりあえずバス停のベンチに座る。
と、そこへ二十歳くらいの若くてきれいな娘が小さい車でやってきて、誰かを探している。
イレーナはぼんやりとその娘を見ている。
イレーナの目にはただただ時が無駄に過ぎさった疲労の色しか覗えない。
やがて、若い娘はイレーナがそこに座っているのに気がつく。
初めは怪訝な表情だったが、すぐに確信したように笑顔で近づいてくる。
その娘はテオだということにいまやイレーナも気がついている。
イレーナは一気に生きる希望がわいてくるが、その疲労しきった表情はあまり変わらない。
そして、テオはどんどん近づいている。
イレーナはその姿をじっと見ている・・・

ここで映画は終わる。


このラストシーンで観客はすべての過酷な状況から救われる。
テオはイレーナが自分の産みの親でないことは知っている。でも、出所したときに迎えに来てくれた。
おそらくこのあとは一緒に暮らすのだろう(育ての母親はすでに亡くなってしまっている)。

僕はこのシーンにものすごい無限の可能性を感じた。
そしてこんなにも映画的なラストシーンが見られてトルナトーレ監督に感謝した。

人を信じることの力と大切さ、それが与える信頼という素晴らしさ・・決まりきったパターンの人間関係がすべてではないということはみな気がついている。
しかし、どこかであるパターン以外の関係などはあるはずもないと思い込んでいないだろうか。
もっと周囲に関心をもって、目を開くと思いもよらない可能性が広がる。
これが“社会性の発展”ということなのだろう。
現在の社会は自由なようで、じつに閉鎖的なところがあると感じている。
それは「自由な社会だから人々は孤立するもの」という宿命みたいなものがあるからかもしれない。
しかし、可能性の芽を自ら摘んでしまうようなことはもったいない。


余談だが、このラストシーンの設定、じつは角田光代さんの小説『八日目の蝉』に似ている。
結果的には異なったものになっているのだが、状況設定がとても似ているのだ。



こういう映画がもっと作られればいいのに・・・