■道徳を学校で教える、しかも、明確な点数評価とする教育科目となる。
幸いにもこの方針は見送られた。
僕はそもそも「道徳を学校で教えるということはどういうことなのか」、という点がすっきりしなかった。
その根底には、学校で教えようとしている道徳というものは、社会や集団に主眼がおかれているものであって、個人にではない、ということが垣間見えてなにやら健全でない雰囲気を感じていたからだ。
分かりやすく言えば、人が社会にうまく適用できることを目的としており、円滑な社会構成に役立たせようというもの。
それはマナーやルールの遵守といったものであったり、人間関係のあり方にまで言及してくるだろうから。
■そんなときに岡本太郎さんの本を読んでいて、ちょうど道徳に関して述べている文章に出会った。それはこのようなもの。
「万博よりも古い話だが、政府が「期待される人間像」というのを打ち出した。保守化してくる時代の風潮に仕上げの鉋(かんな)をかけるつもりか、道徳教育を押しつけようとしたものだ。…どういう人間像を理想とするかは、個人、1人1人が自由に判断すべきことだ。それが自由というものだ。政府や役所が道徳基準だの、人間精神のあり方を偉そうに指し示すなんて、とんでもない。越権行為だし、道義的に許せない。」
そうなんだ。そういうことなのだ。引っかかっていたのはこの部分だった。
人間像や精神のあり方は個人個人で違うもので、しかも、それは自らの力で導き出すものなのだ。
生き方自体もそれと一緒。
その人の生き方は、前例もなければ、後の例もない。
自分の生き方、自分の考え方はたった1つでいいのであって、それを探し出すのが人生といってもいいかもしれない。
決して誰かの模倣をするものでないのだ(自分が尊敬する人のものであっても)。
とかくこの国では「大人(子供)はこのように生きなければいけない」かのような風潮が強いが、そんなもの自体が幻想でしかない。
自分の内面から出た思考で正しいと思ったことを大切にして、それを実行すべきだろう。
これは、道徳とかいう以前の根源的で当たり前の精神だと思う。
また、そういうことを意識していかないと、結局は自分を偽って生きていくことにもなる。
自分の内面を信じて生きるということは苦しいこともあるかもしれない。
しかし、苦しいのがあたりまえなのだ。
苦しむときはちゃんと苦しんだ方がその人にとってはプラスだ。
その後にちゃんと充実感という素晴らしいお返しがやってくる。
以前も言ったことだけど、僕はこの世の中に正解はないんじゃないかと思っている。
納得できる正解は自分の中にしかない。
■またしても、話が脱線してしまった。
道徳はどうするのか?は、もちろん学校で教えるものではないが、どうするのか、ということ。
よく各家庭(や地域社会)で教えるものという意見がある。
できれば、それが良いだろう。
道徳というか、生き方自体を自分の親から知る。子供はだまって親のやることを見ているから、親が口すっぱく言わなくても勝手に学びとっている。
「子は親の背中を見て育つ」という言葉どおりだと思う。
しかし、問題は子供にお手本となりうる立派な大人が少ないということだ。
(これは自分のことを棚にあげて言うことになっちゃうかもしれない。さらに、何も立派になることを目的にすべきことではなく(立派になるとはどういうことか?)、自分の生き方が果たして今のままでいいのか?現在の姿勢が本来の望むべき生き方なのか?ということを真剣に考えてみるということが大切だと思う)
だから、どうせやるなら大人に道徳教育をしてみればどうだろうか?と思うのだ。
これは冗談ではなく結構真剣にそう思う。
たとえば、こんなのはどうだろう。
道徳的に良くない大人達が毎週日曜日の午前中に小学校にぞろぞろと集まる。
自分の子供のちっちゃい席に座らされて、鬼のように怖い教官から道徳を叩きこまれる。
竹刀なんか持っていて、ちょっとでも気がゆるむとビシビシ叩かれちゃう。
・・・これでは映画『時計じかけのオレンジ』と同じで、正しい方法ではないな^^;
じゃんじゃん
幸いにもこの方針は見送られた。
僕はそもそも「道徳を学校で教えるということはどういうことなのか」、という点がすっきりしなかった。
その根底には、学校で教えようとしている道徳というものは、社会や集団に主眼がおかれているものであって、個人にではない、ということが垣間見えてなにやら健全でない雰囲気を感じていたからだ。
分かりやすく言えば、人が社会にうまく適用できることを目的としており、円滑な社会構成に役立たせようというもの。
それはマナーやルールの遵守といったものであったり、人間関係のあり方にまで言及してくるだろうから。
■そんなときに岡本太郎さんの本を読んでいて、ちょうど道徳に関して述べている文章に出会った。それはこのようなもの。
「万博よりも古い話だが、政府が「期待される人間像」というのを打ち出した。保守化してくる時代の風潮に仕上げの鉋(かんな)をかけるつもりか、道徳教育を押しつけようとしたものだ。…どういう人間像を理想とするかは、個人、1人1人が自由に判断すべきことだ。それが自由というものだ。政府や役所が道徳基準だの、人間精神のあり方を偉そうに指し示すなんて、とんでもない。越権行為だし、道義的に許せない。」
そうなんだ。そういうことなのだ。引っかかっていたのはこの部分だった。
人間像や精神のあり方は個人個人で違うもので、しかも、それは自らの力で導き出すものなのだ。
生き方自体もそれと一緒。
その人の生き方は、前例もなければ、後の例もない。
自分の生き方、自分の考え方はたった1つでいいのであって、それを探し出すのが人生といってもいいかもしれない。
決して誰かの模倣をするものでないのだ(自分が尊敬する人のものであっても)。
とかくこの国では「大人(子供)はこのように生きなければいけない」かのような風潮が強いが、そんなもの自体が幻想でしかない。
自分の内面から出た思考で正しいと思ったことを大切にして、それを実行すべきだろう。
これは、道徳とかいう以前の根源的で当たり前の精神だと思う。
また、そういうことを意識していかないと、結局は自分を偽って生きていくことにもなる。
自分の内面を信じて生きるということは苦しいこともあるかもしれない。
しかし、苦しいのがあたりまえなのだ。
苦しむときはちゃんと苦しんだ方がその人にとってはプラスだ。
その後にちゃんと充実感という素晴らしいお返しがやってくる。
以前も言ったことだけど、僕はこの世の中に正解はないんじゃないかと思っている。
納得できる正解は自分の中にしかない。
■またしても、話が脱線してしまった。
道徳はどうするのか?は、もちろん学校で教えるものではないが、どうするのか、ということ。
よく各家庭(や地域社会)で教えるものという意見がある。
できれば、それが良いだろう。
道徳というか、生き方自体を自分の親から知る。子供はだまって親のやることを見ているから、親が口すっぱく言わなくても勝手に学びとっている。
「子は親の背中を見て育つ」という言葉どおりだと思う。
しかし、問題は子供にお手本となりうる立派な大人が少ないということだ。
(これは自分のことを棚にあげて言うことになっちゃうかもしれない。さらに、何も立派になることを目的にすべきことではなく(立派になるとはどういうことか?)、自分の生き方が果たして今のままでいいのか?現在の姿勢が本来の望むべき生き方なのか?ということを真剣に考えてみるということが大切だと思う)
だから、どうせやるなら大人に道徳教育をしてみればどうだろうか?と思うのだ。
これは冗談ではなく結構真剣にそう思う。
たとえば、こんなのはどうだろう。
道徳的に良くない大人達が毎週日曜日の午前中に小学校にぞろぞろと集まる。
自分の子供のちっちゃい席に座らされて、鬼のように怖い教官から道徳を叩きこまれる。
竹刀なんか持っていて、ちょっとでも気がゆるむとビシビシ叩かれちゃう。
・・・これでは映画『時計じかけのオレンジ』と同じで、正しい方法ではないな^^;
じゃんじゃん