
(プログラムは、ベートーヴェンの『熱情』とシューマンの『蝶々』『謝肉祭』など)
同じ時間の大ホールではダニエル・バレンボイム指揮ベルリン国立歌劇場でモーツァルト『ドン・ジョバンニ』を上演しており、ロビーはかなりの人でごったがえしていた。
僕はピアノリサイタルというものに今回はじめて行った(会場には評論家の吉田秀和氏もいたような・・)。
一緒に行った友人の影響もあって、最近は頻繁にピアノ独奏曲を聴くようになっている(グルダのモーツァルトのソナタ集第2弾もよく聴いている)。
シューマンの色彩豊かな楽曲は、実際にスコアをみるととんでもなく複雑でおどろいた。
「こんなにも難解なスコアを実際に弾きこなせる人間がいるものなのか・・・」がはじめの印象。
しかし、世の中にはそういう人はたくさんいる。
僕は『謝肉祭』をエフゲニー・キーシンの演奏に親しんできたが、彼の演奏技術の高さを改めて知らしめられることになった。
■さて、この日のリサイタルは演奏に浸るということよりも、1人の人間の戦いの様を見たような思いがした。
近藤さんは今年で確か82歳というご高齢。そしてプログラムは上記のとおり一筋縄ではいかない楽曲たち。しかも、彼女は暗譜で弾いている(従来からそういうスタイルなのだろうか)。さらに、2ヶ月前にはご主人が逝去してしまっている・・・
演奏終了後の近藤さんの涙はいろいろなことを物語っている。
このリサイタルの日まで、彼女はどんなふうに1日1日を過ごしてきたのだろうか。
夫を失った失意に沈んでばかりはいられない。
リサイタルに向けて日々の練習は欠かせない。
もしかして『中止』という文字も頭をよぎったりしたのではないか。
しかし、プロとしてそれはやってはいけないことだと己を奮起させて、懸命に練習し続けたのかもしれない。
楽しみに聴きにきてくれる聴衆を裏切ってはいけない・・などなど。
リサイタル当日は冷たい雨が降っていた。
前半のベートーヴェンが始まる。
冒頭の曲は初めて聴く曲で、「小ホールでのピアノの響きはこういうものなのか、ピアノという楽器はなんて表現力が多彩ですばらしいんだろう。オーケストラの表現と比べても決してひけはとらないな・・」などと思いながら楽しんでいた。
そして、2曲目のピアノソナタ第23番『熱情』
これは大変なエネルギーに満ちた曲だ。
ベートーヴェンのピアノソナタでもその迫力は群を抜いている。
近藤さんは、現在の心情をそこにすべて出し切るかのような意気込みだ。
壮絶なフォルテが会場に響きわたる。
特に第1楽章の展開部はベートーヴェンの筆の素晴らしさもあって、とんでもなく高い精神状態の頂上をみた想いがした。
苦しみながらもどこまでも登りつめる精神性・・・この曲はとんでもない名曲だ。そして近藤さんの熱演はそれを見事に再現していて、久しぶりにベートーヴェンを感動して聴いた(こういう体験はコンサートでしかできないもの。CDでは決して味わえないだろう)
しかし、随所にミスが生じる。
聴いていて冷やっと緊張がはしる。
後半のシューマンでは聴衆はその緊張感をさらに多く味わうことなる。
この日のプログラムを暗譜で弾くということ自体冒険ではないか?(僕はまだピアノの世界をよく知らないのだが・・)
そこに彼女に降りかかった逆境。
シューマンの複雑なスコアをミスなく弾くことはもはや不可能であったのかもしれない(失礼な表現かもしれませんが)。
『謝肉祭』終曲が終わって観客に顔を向けたときは涙が自然とあふれてきて、ハンカチで何度も拭いていた。
彼女は、ただただピアノを弾く、弾きとおすとこにのみ集中しているようだった。
一か八かの真剣勝負。挑戦。自身もどうなるかわからい。しかし、プロとして聴衆を楽しませたい。己の芸術性を披露したい。伝えたい!ベートーヴェンとシューマンの偉大さを認識してもらいたい!・・そんな想いがあったように僕は思う。
たんに演奏会に行ってピアノを楽しんで聴いたということではない。
近藤洋子さんという1人の人間の濃厚なドラマの瞬間に居合わせた、・・と言ったらいいのだろうか。
一緒にいた友人も、「演奏家としての難しさ残酷さなどを考えさせられるリサイタルだった・・」との感想。
そう、残酷でもあったのだ。
■それにしても、ピアノ独奏という新しいジャンルの認識は、僕にとって新たなクラシック音楽の源泉の発見でもあるので、今後さまざまな作曲家を別の角度からみられる機会となる。
これから、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、シューベルト、ショパンなどのスコアをそろえて、じっくりと聴いていきたいと思う。
じゃんじゃん