
この作品はそれほどおもしろいわけだし、一方で、いつまでも読んでいたい。終わって欲しくない。この小説の世界に永遠にひたっていたい・・と、そんな想いもした。
センセイとかつての生徒であったツキコさんの自然な関係がいい。
とてもいい。
2人は微妙なバランスで保っているようにも感じるが、根っこの方ではしっかりと繋がっている強い『絆』があるのだ。
この小説には飲むシーンが頻繁にでてくる。それもまたうれしい。(このブログで公開している『サイモンとマリス』も終始飲んでいるシーンだし^^;)
2人は言い合わせて飲みに行くのでなく、いつもたまたま同じところで飲んでいて、なんとなく話す。
勘定は割り勘・・というか別々に支払う。
割り勘はフェアで独立した関係を維持するためには必要なこと。
2人の何となく話す会話は無駄がなく、どこまでも自然そのもの。
「この人とどんな会話をしようか・・」と思案をめぐらすことなどは決してしない(僕も飲むときはしないが^^;)
センセイのゆったりとした話し方と動作の“間(マ)”がこの小説を心地よくしている。
決して慌てないで自分のペースをまもる。いや、それ以外の生き方はできないのだ。
それにピッタリと合うツキコさんの対応も心地いい要因なのだろう。
センセイの話に、「はあ」と気のないような返事をする。
センセイはその反応が好きだったのだろう。心のなかで「自分と合う人だな」感じていたのだろう。
あらゆる小説には「物事の教え」が含まれているが、『センセイの鞄』はその教えが多い。
恋愛を含むほとんどの人間関係は、「育てれば育つ。育てなければ枯れる」・・・・ああ、そうだなー、と思った。
大切な人を放っておいてはダメなのだ。もちろん大切な人と思っていれば放っておいたりはしない。でも、“大切な人”に対する自分内部のエネルギーが落ちてきても“大切な人”であるならば、大切にするようにしなければならないのだ。
人は人によって最大限に生かされる。人がもっとも興味がある対象は人なのだ。
恋人、夫婦、親子、友人、同僚、ご近所さん、など、さまざまな人間関係をこうした言葉でくくっているが、この小説をよむと、そんなものは大した意味はないのではないかと思えてくる。
大切なのは対外的な名称・立場などは関係のない裸の人と人でしかなく、心からの自然的で深い交流。
それが、あるべき関係なんじゃないだろうか。
この2人はうつくしい関係だ。とても暖かく、絆は硬い。そして読んでいてとても切なくなる。幸せな2人なんだけど、なぜか非常に切ないのだ。
それは、センセイは老いていてツキコさんよりも長くは生きられないという現実があるから、2人はそのことをそれほど口にしないが、常に意識せざるを得ないことだから、だろうか。
大切な人ができるとなぜか死を意識する。
それはずっとその人と一緒にいたいと思うわけだし、死にたくない、死んでもらいたくないと願うからなのだ。ものすごい根源的なところまで気持ちが及ぶ。
これは、なんどでも読んでみたくなる小説だ。
友人は、この小説はゆっくりと一言一言を味わうように読むことをすすめていた。うん、そうしよう。今度はそのようにゆっくりと読んでみよう。
ちゃんちゃん・・