■車を運転する人ならここ数年の変化に気がついているだろう。
車社会における無関心な態度が蔓延してしまったことに。我さきに行こうとする無謀な運転が“ノーマル”になっていることに。
赤信号になってから数台はなおも交差点を横切るのが普通。
ちゃんと赤信号で止まろうとすると、返って後ろから追突される危険がある。
そういうことを考慮しながら止まらないとならない状態。
『ゆずり合い』などという意識は希少価値的なもの。
先日、駐車場から出る際。ここでしか車線に入れないだろうというタイミングでも断固として入れてくれないときがあった。それが高齢のおばちゃんなのだ。
そのときは寒々とした虚無感を感じた。
大人がこれでは子供が幸せなはずがない。

■より速いものをどんどん開発すればするほど、我々の時間はなくなる。
なんという皮肉なことだろう。
東京と福岡を飛行機で1時間ちょっとで行けてしまう。
便利なことこのうえない。
しかし、ほとんどの人はその空いた時間をくつろぎにつかうのではない。
“何か”をしようと返って躍起になるのだ。

速い乗り物に乗れば乗るほど、我々は忙しくなっている。

なんのための発明なのか、もっともっと広範囲の影響を考える思考をしなければならない。
1つの優れた発明は便利の向上になる。そして、その便利さばかりがクローズアップされる。
そうしないと売れないからだ。
しかし、発明者の目的は利益をあげることだけであれば、売れれば成功となる。
世の中を良くしたい。という発明もたくさんあるだろう。
ただ、この場合、良くしたい=楽をすること、と捉えられているときがある。
これは浅はかすぎるだろう。
楽は決して良いことではない。
便利で楽なことは、良いことのように思われるが、それは逆に人間の能力を退化させることに直結するし、精神的にも怠惰な色が濃厚になる。
なんのための発明なのか。欠けてはいけないことだと思う。

■前置きが長くなってしまったが、表題のテーマはこれから。

『助け合わなくても生きていける社会』これが今の社会の悪い面の原因なのではないだろうか?と思った。
つい最近まで、経済成長が起動にのったころまで、日本人はお互いに助け合わなくてはとても生きていける状態ではなかった。
食べるものでも、封建的な社会による抑圧でも、1人では生きにくい社会だった。
イヤでも協力し合わなくてはならなかった。
本当はそういう人間関係は面倒な場合もある。でも、そうしなくてはならなかった。
それが、今は昔の人が希望したとおりの1人でも生きていける社会になった。
喜ぶべきことだろう。
だが、その喜ぶべき社会は素直に歓迎できる社会ではないようだ。
1人でも生きてきていける社会は、人間と人間の間に壁をつくってしまった。
望んでも無理だったことが現実となった。
しかし、これは本当に望んだこととちょっと違う。
面倒なことを悪と捉えることは違うと思うのだ。
面倒だが、大事なことだった。
厳密にいえば、1人で生きていけるようでも実は1人では生きていけない。
人間同士のつながりがないと、正常には生きていけない。
でも、1人では働いて、食うことはできるし、バーチャル的な相手を得ることも可能となった。それで云いと思える幻想をつくりだすことに成功した。
やっかいだ。
便利な社会はもちろん素晴らしいことなのだが、それだけではユートピア的な社会にならないところが難しいところだ。
どうしてもこういう困難から脱却できないところにこの地球(原生)の根源的な仕組みを感じてしまう。

これは昨夜、フランシス・プーランクの陽気な室内楽とルービーを飲みながら書いたのだ。
ちょっと酔っているうえに推敲していないから文章的に変でしょう。

今週もがんばりましょう!