
今回も音楽監督のサイモン・ラトルが指揮をしている。
曲目はR・シュトラウスの交響詩『ドン・ファン』、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番、R・シュトラウスの歌劇『バラの騎士』からフィナーレ、それとアンコール2曲。
ラトルにしてはオーソドックスなプログラム。
1曲目の交響詩『ドン・ファン』
これを聴くといつも思う。「もし、僕が作曲家だったらきっとこういう曲を書いたんじゃないかな」
もちろん僕には作曲の才能はないし、考えたこともないのだが、なんとなくそう考えてしまうほど自分にしっくりくる曲なのだ。
『ドン・ファン』は約18分の曲だが、どこのシーンを聴いても自分なりに“わかる”のだ。
「そうそう、こういうメロディーが求めているものなんだよなー」とか「ホルンと打楽器の使いかたも、これが理想的!」などと勝手に納得している(笑)
サイモン・ラトルは指揮棒を持たずに指揮していた。
それは、繊細な表情付けを意図してのことだろうか。
ロマンチックに歌う場面では、ことのほか丁寧に味付けをしているし、フィナーレに向って数々の場面を丹念に、時にダイナミックに描いていく。
素晴らしい演奏であった。
しかし、この直後にカラヤン指揮ベルリン・フィルの80年代の録音を聴いたのだが、カラヤンの演奏は雄大で何よりかっこいいのだ。
録音状況の違いもあるが、この曲に関してはカラヤンは絶対の自信を持っているかのように、『自信』が演奏に表れてくる。
僕は改めてカラヤンを見直した。
『ドン・ファン』は、理想的な女性を求めて旅を続け、最後に夢叶うことなく死を迎える悲劇の男というストーリーをもっている。
演奏の違いは、ラトルとカラヤンの人間の性格の差が音楽に出ているような気がした。
2人の時代を代表する指揮者の性格は、本や雑誌で読んだ範疇しか知らないので、実際のところはほとんど知らない。
でも、音楽を作り上げるうえで、指揮者の内面って必ず音として現れるだろう。
2人の『ドン・ファン』を聴いてそういうことを考えていた。
2曲目のモーツァルトのピアノ協奏曲第20番。
ピアニストに内田光子さんを迎えていた。
これはすごく素晴らしい演奏だった!
内田さんのモーツァルトに対する真摯な感情が深く込められて、どの音符も決しておろそかにしない演奏。
彼女はモーツァルトをこのうえなく愛しているんだと思った。
また、ピアノの音があれほど透明で輝かしい音をしているということに気がつかせてくれたことも嬉しいことだった。
ここでもラトルはノンタクト。
好サポートであった。
『バラの騎士』はまだ観ていない。
が、アンコールのドォルザークのスラブ舞曲はラトルが大得意な曲だけあって、会場は沸きに沸いた。
ラトルは一時期オケとのギクシャクした関係がドイツのマスコミに取りざたされていたり(真偽のほどは不明)、ベルリン・フィルの音楽監督という重責などで、「大丈夫かな・・」心配していた。
しかし、この放送を観るかぎりでは、両者の関係は良好に見えるし、ラトルの顔色がとてもさえているように見えたので、ちょっと安心した。