
前半のモーツァルト交響曲第39番は確かに名演だった。
メヌエット中間部の楽しさ、美しさ、軽快さ。
終楽章の弦の密度の濃さ、などなど。
休憩のとき、このコンサートに来られた喜びに浸っていた。
しかし、後半のベートーヴェン交響曲第7番イ長調。
これはとんでもない代物だった。
前半のモーツァルトの名演が霞んでしまうほどの衝撃。
こんなにも野性的、ある意味“野蛮な”ベートーヴェンは聴いたことがない。
野蛮は言い過ぎかもしれない。
しかし、「これはやり過ぎだろう・・」とはじめは驚きながら苦笑していたが、次第にアーノンクールの世界に引き込まれる。というか共感できるようになってきた。
第1楽章からアーノンクールばりのsfをかなり強調する奏法。
これが身体にジンジン染みてくる。
アーノンクールは乗りに乗って恐ろしい表情(失礼)がよくうかがえた。
よく見ると弦はノンヴィブラートではない。
たいがいの場面でヴィブラートをかけている。
これは実に有効な手段だと思った。
古典奏法に徹しているだけではない。
彼独自の考えから生まれたものだろう。
そう、この“独自性”がとても気になった。
この日の演奏は過去の誰の演奏も模倣していない。
アーノンクールの内面から生まれでた結果だと思った。
さもなければ、これほどベートーヴェンを壊せないだろう。
聴きながら、これは現代の軟弱な演奏に対する一種の破壊行為だと感じた。
でも、目的は破壊ではなく、アーノンクールが楽譜から読み取った結果だ。
しかし、これほどのショッキングなベートーヴェンは今まで聴いたことがない。
これが本当のベートーヴェンというものか・・
■2001年にサントリーで聴いたラトルとウィーン・フィルの『第9』は僕にとって一つの頂点をなす演奏会だった。
しかし、アーノンクールはもっと幅が広いというか『額縁』からはみ出ている。
現代という額縁から。
そのことがショッキングであり、新しい体験だった。
■ミューザ川崎は素晴らしい音響のホールであった。
僕の座った席は3階L4という最上階のオケの裏っ側。
天井桟敷だ。
しかし、ここでも音響は満足だった。
若干ティンパニの強打が耳についたが不満はない。
■このホールのとなりに広大な商業施設がある。
そこに丸善書店が入っていて。
以前から気になっていら本を見つけた。
福沢諭吉の「学問のすすめ」(現代語訳版)。
最近、福沢諭吉の言葉に影響されている。
勉強する意味や、真の独立した人間の意味とは、などなど。
アーノンクールの独創的な解釈は、今の自分に必要な事が何かを明確にするものだった。
僕は思ったとおり独自に生きているようで、実はそうではない。と最近に感じる。
今は何かと迷っている時期。
アーノンクールと福沢諭吉。
接点は薄いが、ともに今の僕には必要な出会いだった。
アンコールは恒例のウィンナーワルツかと思ったら、ベートーヴェン交響曲第8番の第2楽章!
これも引き締まった名演でした。
まだまだ書きたいことがあるが、きりがない・・