■先日の帰宅途中のこと。
薄暗くなった歩道を歩いていた。
この歩道は、道の脇からは雑草が伸びていて道が狭くなっている箇所が随所にある。
すると、まえから中学生の女の子が自転車でやって来た。
僕は道を譲ることにし、雑草が飛び出している手前で待った。
自転車の女の子はスピードを緩めないで、こちらに目を向けることもなく通過した。
僕が道の脇で待っているのは知っているはず。
でも、そこに誰も人間などいなかったように通り過ぎていった。
少し寂しい気持ちになる。
正直に告白すれば、僕は気持ちのどこかで、道を譲ったことに対する挨拶を期待していた。
このコミュニケーションが期待しなくなったら駄目だ。期待できないような社会になったらおしまいだ。
こういう嫌な思いをする出来事は、今の日本においては一日に何度か体験する。
片側通行の道を譲っても無反応なドライバー。ラーメンを食べても店員に何も言わないで店を出ていってしまう人。コンビニのレジでまったく声を出さないでおつりを受け取る客。
別に言わなければならない義務はなにもない。
言わなくても法的には罰せられない。
しかし・・
罰せられないが、日本社会を冷たくしていることに加担していないか?
なぜ、何も言わない人がこうも増えたのだろう・・
人との関わり合いを極端に避けるというか、自分の殻に閉じこもっているというか。
これは健康的ではないし、何か間違った方向に向いていると感じる。

■さきの自転車の女の子は、こういう日本に生まれたから、無言で通り過ぎることがごく自然のことと認識する女の子になってしまったのだろうか。
今の日本社会を作ったのは過去からのさまざまな要素があるが、今の大人が関与している部分は非常に大きいと思う。
しかし、あえて…
こういう社会だからこそ、自己主張はすごく重要だ。
自分という個をしっかり持って大地に根を下ろして立っていないと、“一般”や“世間”に流されていくだけだ。
それは表面的には楽な生き方かもしれないが、心からの充実感にはならない。
自分の行き方とは違う場合が多いからだ。
多くの大人はどこかであきらめてしまっているのだろうか?
とりあえず、働いて賃金を得て、楽しく、病気にならなければいいや。というように。
この状態でマシだと思いこんでいるのか?
本当に楽しい社会だと思っているのだろうか?
疑問にすら思わないのかもしれない。

■“個”を持ち続けるということは、実は大変な努力がいることだ。
川の流れに逆らって上流を目指すように、常に戦っていなくてはならないからだ。
でも、そうでもしないと耐えられない世の中であるからそうするしかない。
“しゃべらない社会”は、僕は好きではない。
だから、自分が話したいことを話したい人に話していく。
それは、見知らぬ店員であったり、舞浜駅に行く方法に迷っている小学生たちであったり、自分が住みたい社会に住んでいるかのように、気持ちに正直にがんばるしかない。