■今日もとんでもない事故が起きてしまった。
埼玉県川口市で保育園児の列に車が突っ込み、幼い命が失われてしまった事故・・
幼い命が失われるのは、先日、福岡の暗い海に散ってしまった3人兄弟の悲しい事故が記憶に新しいばかりなのに。
こういう悲惨な事故や事件を耳にするたび、被害者は見知らぬ他人でなく、まるで自分の身に起きたかのごとくのショックを受ける(もちろん当事者はその数百倍以上のショックだろう)。
「うちの子じゃなくて良かった・・」などとはとても思えない(正直、以前はいろんな事件・事故を聞いても“他人事”という意識が大きかった。でも変わってしまった。というかまともになったのだろう。)
なぜ、こんな悲劇が何回もおきるのだ!
今回の事故はわき見運転が原因だったという。
そもそも、わき見運転ってどういう状態なのだ?
メールでもしていたのか?美人にでも見とれていたのか?
そんな狭い道路で危険なスピードをだして。
当人の軽い感覚がとんでもない惨事を引き起こしてしまう。
わき見でも、酔っ払い運転でも、本人は人を殺そうとして運転しているわけではないはず(加害者を庇う気はさらさらない)。
しかし、ちょっとした“魔”で、とりかえしのつかない事態を招いてしまう。
「もうこれで最後にして欲しい」と遺族の訴えはいつも裏切られてしまう。
それというのも国の対策が悪いからか?
そればかりではない。
対策は過剰なまでにされているケースが多いが、それだけに頼ってしまっているからかもしれない。
国民の心に深く浸透していないからかもしれない。
こんな惨事はもうたくさんだ、と一人一人が胸にしまう。
しかし、これは実際には無理な話だ。
いろんな考えの人間がいるかなで、1つの事柄を共有し合うなんてことは現実味がなさすぎる。
では、どうしたらいいか。

僕はスピード社会に問題があると思う。

■自分の家の近くにも細い道路がある。
朝夕は、通勤の車が法廷速度を大きく超えて(時には信号も無視して!)突っ走るのをよく見かける。
「何をそんなに急ぐのだ。」1秒でも早く目的地に着こうとする意識が垣間見える。
1分早く着いたって何も変わらない。
でも、その1分1秒のために“当人も自覚なしに”急いでいるように思える。
「周りのみんなが急いでいるから、なんとなく忙しい人間になってしまった。」振り返ればそういう人は多いだろう。

■朝の電車でも理解を超える多忙さだ。
終着駅に着いてドアが開いたとたん。
少しでも先に行こうとダッシュする人が多い。
血相を変えて朝から猛ダッシュ。
不気味な光景だと思っている。
“急ぐ”ということが身体の奥にまで染み付いてしまったようだ。
急いでいないと何かが変で落ち着かない。
まるで、急ぐこと、流行に乗り遅れないことが、生きる目的のようだ。
本当の生きる目的は?というかどういうふうに生きたいと思うのか?を問わないといけない。
急いでいる姿は、まるで目に見えない“敵”と戦っているというか、戦わされているというか、そういうふうにも見える。

やはり、日本人の多くは個々の生きる目的を見失っているのだろうか。

やみくもに日々を消化しているだけのようにも思える。