■昨日、河合(隼)さんの「日本人とアイデンティティ」という本を読み返していた。
そこに次のようなことが書いてあった。
童話の残酷性を抜いてしまった一見”無害”な童話集は、子供にとって好ましいことでない。
無菌状態のみで育った子供は大きくなって、残酷性が表面化して攻撃的な人間になることもある。
本来、子供は全人的に物語を理解する。残酷な話を聞いても、こどもはそれがお話だということをちゃんと理解する。
■そうだよなー。
子供は虫を簡単に殺したり、親類を話のなかで簡単に殺したりして遊ぶ。
大人ではなかなか出来ないことだ。
子供は自然そのもの。
大人の簡単な隠蔽など簡単に読みとってしまう。
つねずね思うことに、大人は物事の本質を隠しすぎてしまい清潔無害な社会をつくろうとしているんじゃないか。ということがある。
そこには、真実は少ない。
人は他の生命を食べてしか生きられないということも分からないままに大人になってしまう。
偽善社会とでもいえようか。
■そんなことを考えていたら、自分の子供のころを思い出した。
物心ついたころから小学校高学年くらいまで、ひょっとしたら中学校くらいまで、世界は自分を中心に回っているものだと信じ込んでいたんです。
とんでもなく極端な発想だと思う。
この世の中には本当の人間は自分しかいない。
親も兄弟もクラスメイトも近所の友達も、実は僕と違う生き物(もしくはロボット)で、みんな自分の動向を気にしている。
だから僕の目がないところでは、みんなリラックスして違う姿になっていたりする。
だから僕とすれ違う人は内心ではドキドキ緊張している。
そこで、すれ違いざまにいきなり振り返ったりする。
すると、その人はビックリするだろう、と。
でも、誰もビックリなどするわけがない。
子供の僕は、みんなそこまでトレーニングされていたんだ、と感心する。
歴史も実はみんなウソ。”外国”という存在もウソ。
■しかしやがて、そうではないということに気がつきはじめる(遅いっちゅーねん!)
僕もみんなと同じ種類の人間だったのだ。
今の物事をなんでも客観的に見てしまう性格もそのころの名残かもしれない。
常にみんなの輪の中には入らずに、一歩下がって遠くから見ている。
これには一長一短があることは分かっている。
でも、そういう生きかたしか出来ないことも分かっている。
そこに次のようなことが書いてあった。
童話の残酷性を抜いてしまった一見”無害”な童話集は、子供にとって好ましいことでない。
無菌状態のみで育った子供は大きくなって、残酷性が表面化して攻撃的な人間になることもある。
本来、子供は全人的に物語を理解する。残酷な話を聞いても、こどもはそれがお話だということをちゃんと理解する。
■そうだよなー。
子供は虫を簡単に殺したり、親類を話のなかで簡単に殺したりして遊ぶ。
大人ではなかなか出来ないことだ。
子供は自然そのもの。
大人の簡単な隠蔽など簡単に読みとってしまう。
つねずね思うことに、大人は物事の本質を隠しすぎてしまい清潔無害な社会をつくろうとしているんじゃないか。ということがある。
そこには、真実は少ない。
人は他の生命を食べてしか生きられないということも分からないままに大人になってしまう。
偽善社会とでもいえようか。
■そんなことを考えていたら、自分の子供のころを思い出した。
物心ついたころから小学校高学年くらいまで、ひょっとしたら中学校くらいまで、世界は自分を中心に回っているものだと信じ込んでいたんです。
とんでもなく極端な発想だと思う。
この世の中には本当の人間は自分しかいない。
親も兄弟もクラスメイトも近所の友達も、実は僕と違う生き物(もしくはロボット)で、みんな自分の動向を気にしている。
だから僕の目がないところでは、みんなリラックスして違う姿になっていたりする。
だから僕とすれ違う人は内心ではドキドキ緊張している。
そこで、すれ違いざまにいきなり振り返ったりする。
すると、その人はビックリするだろう、と。
でも、誰もビックリなどするわけがない。
子供の僕は、みんなそこまでトレーニングされていたんだ、と感心する。
歴史も実はみんなウソ。”外国”という存在もウソ。
■しかしやがて、そうではないということに気がつきはじめる(遅いっちゅーねん!)
僕もみんなと同じ種類の人間だったのだ。
今の物事をなんでも客観的に見てしまう性格もそのころの名残かもしれない。
常にみんなの輪の中には入らずに、一歩下がって遠くから見ている。
これには一長一短があることは分かっている。
でも、そういう生きかたしか出来ないことも分かっている。