■昨日は日本語文書能力検定試験(準2級)を受けてきた。
こういう資格試験は久しぶりの体験だった。会場はコンピュータ専門学校の教室。狭い教室に小さい机。なんだか懐かしい光景だ。などと感傷に浸っている場合ではない。試験は大変だった。90分の試験時間をうまく割り振れず、最終の問題ではほとんど適当な回答になってしまった。合格か不合格かは微妙なところ。結果が楽しみだ。
しかし、今後に必要な勉強方法を発見した。それは文章を書く上でこのようにパソコンで書くのでなく、紙の上に鉛筆で書くことだ。覚えていると思った漢字をけっこう忘れていることがショックだった。それに字が汚く文字が読みづらい。もっと丁寧に書かないと自分で自分の文章がイヤになる。
それにしても90分間真剣に考え抜いたという作業は本当に久しぶりだった。いい刺激になった。頭がじっかり働いて、今まで悩んでいた物事が分かりつつあることに気がついた。それは“個性”についてだ。
■「今の日本人には個性がない。個性を持とう!」と言われる。では、海外の人には日本人が持っていない“個性”があるのだろうか?そもそも個性とは具体的にどんな“ノモ”なのだろう。実態があるものか。もしくは確固たる個性の定義が存在しており明文化されているものだろうか。
“個性”というものの正体を暴くためにここんとこ頭を使っている。
養老さんは個性など必要ない。今の社会発展は人間の共有がもとで発展してきた。言葉をはじめ何もかも同じ認識・方法を得て、みんなで社会を発展してきたのだという。個性を持とうなんて言っても、若者は悩むだけ、うわべだけ“個性を持とう”といっても学校や会社では“集団”を要求される。本当の個性の持ち主は精神病院にいる。あの人こそ個性的で、一般の人は大抵理解できない。
なるほど、と思う。
“個性”とは大衆には理解されないもの。
■そう考えると、芸術家達は個性的な面々がなんと多いことか!
生前は誰にも己の芸術を理解してもらえず、死後何年か経ってようやく認められるなんてことはよくある。これが個性といえるんではないか。
ゴッホやマーラーはその典型かもしれない。
ベートーヴェンについては、当時のドイツやウィーンの人は「なんて攻撃的な音楽だ」と思って、はじめからすんなり受入れられなかったのかもしれない。しかし、次第にその珍しい音楽は徐々に大衆に認められるようになった。ベートーヴェンも初期の作品ではハイドンやらモーツァルトの影響が認められる作品を書いている。その後、徐々に彼の“個性”が現れる。その時代からはみ出した激しい音楽が。己の芸術を追及した結果(せざるを得ない精神状態だったことだろう)、時代を凌駕した音楽が誕生したのだ。
■そう考えると、“個性”は何も精神病院に入らなくても持つことができるのだ。大衆・時代に翻弄されながらも、個性はきっと自分の中にあるのだ。社会生活が出来ないほど大きな“個性”ではなく、ささやかではあるが、みんなと違う何かがあるのだ。その存在を個性と呼んで良いと思う。