■先のハーディングのコンサートにおいても、演奏が終わって間髪いれずに拍手をする人がいることをコメントした。日本でのクラシックコンサートにおいて、演奏の終了=即座に拍手をしなければ、という決まりがあるかのような反応をよく見かける。誰かを偲んで催した演奏会でもこの現象が起こることがあるので、指揮者は演奏の終わりと同時に観客の拍手の出を抑えねばならない。小澤さんが震災に遭われた方への援助のために開催したコンサートでも同じことがあった。祈りのような最後の一音が消えると同時にパラパラと拍手が起きたが、小澤さんが顔を上げずに手で拍手を制止していた。そもそもその演奏をじっくり聴いていればとたんに拍手などできようがないのだが。
最後の一音を飲み込んで身体のなかに染み込んでから、演奏者に敬意をこめて拍手をおくりたいものだと思っている。あまり堅苦しいことではない。音楽を聴くという姿勢は各人自由でしょう。まわりの人の邪魔になってはいけないが、心を開放してリラックスして聴くのがベスト。
我々日本人は往々にして名前やラベルに弱い面がある。
ベルリン・フィルだからウィーン・フィルだから悪いわけがないだろう。アバドやラトルだから感動しないはずがない、と思っている人もいるだろう。
以前アバド指揮ベルリン・フィルでベートーヴェンの第9を東京で聴いた。このときの演奏は残念ながら自分の心にほとんど訴えかけてくるものがなかった(合唱が素晴らしかった記憶はあるが)。アバドは今でも大好きな指揮者でその後の来日公演のベートーヴェン第7では圧倒的な感動と興奮が得られた。しかし、この日の第9はまったくに期待外れだった。一緒にいった奥さんも同じような印象だった。でも会場はもの凄い拍手と歓声。音楽や映画の捉え方はそれこそ千差万別。100人が100人違う捉え方をするものだ。だから我々だけが感動をしなくても異常な出来事ではない。ただし、うしろの席の若者達も「さすがアバドとベルリンだね!」なんてセリフが聞こえたとき、“ブランド”としてのアバド指揮ベルリン・フィルという方の意識が強くて、真に演奏を聴いているのだろうか?と感じたのだ。なんとなくそう感じた。その青年の言い方もそう感じさせたのかもしれない。僕はこの青年は非難できない。そういう自分もあったからだ。黒澤明だから、ヒッチコックだから、面白いに決まっている。またはアノ評論家が推薦しているCDは名演だろう、なんて決めてかかっていたときもあった。
あるとき評論家の言うことを殆ど信じないようにしたし、見ないようにもした。それは自分の思っていることとのズレが多々あって、批評の存在理由が疑問に感じたからだ。それに、自分の感覚100%で作品に挑まないと面白くないと思ったのだ。今でもそれは心がけている。たまに批評は目にするが、自分の感性をしっかり持ちながら流されないように意識して読んだりする。
ラトルは常々「ベルリン・フィルは崇高で近寄りがたい権威なんてものじゃない。要望があればこちらからどこへでも出掛けて演奏しますよ」と言っていた。僕はこのラトルの言葉は『私達の音楽の真の部分を聴いて欲しい』と言っているのだろうと解釈している。