
終始心を動かされっぱなしであった。
いわゆる“ナチもの”としてもみえるが、純粋な人間ドラマとして正面から捕らえており、我々が経験する日常の葛藤もそこにはある。
人種の違いや、各人の性格の違い。
人間は“種”としては1つだが、国、肌、などで分かれているように思える。
この映画では、“違いこそ、尊重すべきものだ”といっている。
他と同じなのが悪いのじゃない、自分の“意思”と違うこと、単に他と合わせることがよくないのだ。
普通に自分の“意思”どおりに行動すればよいのだ。
これが実は難しいのだが…
(レギーナ)幼女役と少女役の俳優は同じなのだろうか?
少女役の俳優に幼女役の面影があった。
長い年月をかけて撮影されたのだろうか?もしくは姉妹なのか?
特に幼女役の俳優はいい表情をしている。
オウア(アフリカ人)は俳優なのだろうか?
原住民なのか?
ハリウッド映画で描かれる日本への誤解を見るかぎり、外国を描くのは難しい。
この映画をアフリカ人が観たら、「これはないよなー」というシーンはやはりあるんじゃないだろうか?
これはドイツ映画だ。
ハリウッド映画のように整えられたカメラワークではない。
人物へのパンのスピードの速さや、バッタの大群を追払うシーンでのスローモーションは粗く、昔風だ。
人の“死”に対する考えかた、と、人との“別れ”の考えかた。
登場するアフリカ人のオウアは、これらに対して、じつにいさぎよい。
(大切な人との)別れを告げるのは“心を死なす”ことになると言われ、エアウは早朝ひっそりと愛犬と旅立とうとした。
あっけないほど、のいさぎよさ。
一見冷たいようにもとられがちだが、そうではない。
オウアの心の中は、他の人間と同様に辛いのだ。
では、覚悟が違うのか。
これは、死の場面でも同じ。
人が死ぬと疫病などで家が汚れるので、死ぬ人間は、外で1、たった人で死ぬ。
死期が来ても人はすぐには死なないもの。
何日も死を待つ人は、何も食べず、小さな木下でうずくまっている。
家族の目の入るその場所で。
もうこれは強烈だ。
動物のそれと似ている。
死期の到来を覚った猫は、人知れず1匹でどこかで死を受ける。
人間にはとても真似できない、ある意味、なにか凄い崇高さを感じる行為だと思っていた。
それをこの映画のアフリカの人は平然と行っていた。
主人公の西洋人女性は、その瞬間にもポーランドの強制収容所で母親がナチスにより虐殺されているかもしれないとの想いをダブらせ、アフリカ人の年老いた女性を声も出ないほど泣いて抱きしめていた。
なんだか、死に対する考えかたは、先進国といわれる我々は、醜いくらいの執着があるように思えて考えさせられる。
なんとか死の時期を遅らせようとする。
死に対する考えが、まるっきり違う。
我々は一般的に、死は、永遠の別れ、恐怖、といったイメージが強い。
しかし、アフリカの人は、自然への帰還、復活、などの肯定的な考えをもっているように思える。
精神的に、アフリカの人は我々よりも相当高いように思えた。