五・七・五


五・七・五・七・七


三・三・七拍子


三本締め


なんとなく、情緒を感じたり、余韻を残したりするときには、偶数よりも奇数の方が具合がいいような気がしてきました。


で、ちょっと浅はかな考察をすると、、、なんとなく、「四」との比較なのか・・・な?


つまり、「四」や「八」を基本とすると、俳句の「五・七・五」は「8-3・8-1・8-3」だし、短歌の「五・七・五・七・七」は「8-3・8-1・8-3・8-3・8-3」。


俳句や短歌、雅楽の拍子などは、引かれている「一」とか「三」を、余韻として楽しめるようになっている(?)


「四」や「八」のような完成形ではなく、あえて遊びを残すことで、余韻を味わう。そんな不完全さを楽しむのが「をかし」や「趣」の文化なのかなぁ・・・と思ったりしています。


なぜこんなことを考え始めたのかというと、先日のマイケルの記事 で、「朱雀、青龍、玄武、白虎」の真ん中に、「両刃の剣、まがだま、鏡」があるという話が出ましたが、その後に、「四」と「三」の関係性というか、それぞれの数字の持つ特性みたいなものを友人と話していました。そんなこんなで自分なりにまとまったのが、


「四」が静的なものの象徴であり、「三」が動的なものの象徴である、という感覚です。


たとえば、「四」天王、「八」岐大蛇(ヤマタノオロチ)、「風林火山」なんかは、文字通り、どっしり構えて「動かざること山の如し」という感じ。


かたや、「三」つ巴、「三」角関係、「三」菱パジェロミニ(・・・?)なんかは、躍動してる感じがします。(←最後のは一応、「三」段オチ、のつもりです、笑っ)

でも、、、「四」はわりと縁起が悪い数字でもありますよね・・・


でもでも、そういうことだと思うんです。


東西南北、上下左右、古今東西、ぐるりと一周回りきって、完成してしまったもの、完全無欠、完璧を極めたものは、それはもう、この世のものではなくなってしまう、、、四次元の世界、幽界や霊界に(←マンガの読み過ぎ?)行ってしまうんだと思います。


かたや、「三」という数字は、わりと躍動感や生命力を感じます。


心・技・体、、、天・地・人、、、魏・呉・蜀、、、グー・チョキ・パー、、、そして、、、


「支点・力点・作用点」、、、??

「らせん、軸、らせん」、、、??


ちょっと三角形っぽくはないけれど、なんとなく、なんとなく、必死に生きようとするドラマを感じてしまいます。



生きるということは、不完全であること


不完全だから、生きるのだということ


完全を目指して生きるけれど、完全を手にした瞬間、「それ」は、成し遂げられてしまうということ



「四」は止まってしまう。「三」は生き続ける。


だからこそ、「四」は、動き続けなければいけないのだと思います。


この「四」本の手足は、走り続けなければいけないのだと思います。


それが、生きるということなんだと、今は信じていたいです。

"Show must go on..."


"Party never end..."


"Never Ending Story..."