おばんです~。
特に書くこともないんですけどね。
いつものように何となく書き始めました。
ちょっと前映画の「めがね」を再鑑賞して、
「いい映画だな~( ゚Д゚)」
と改めて実感しました。(そこから光石研さんにハマってバイプレイヤーズを見始めました)
EDの曲、改めて聞くと凄くいいんですよ。
誰だろうと思ったら、大貫妙子さん。
「私がここにいる」という歌詞が妙に心に響きます。
途中で英語の歌詞が流れるんですが、さっき調べたところ…
You live freely only by your readiness to die.
(あなたは、いつ死んでも死を受け入れられるようにしていてのみ、自由に生きることができる。)
(゚Д゚;)
これはもしや映画に隠された真のメッセージか!?
(ちなみに映画のキャッチコピーは、「何が自由か、知っている」)
色々考えてみましたが…
なにも繋がりませんでした(;´Д`)
以下禅の話になるので興味のない方は読み飛ばしてください。
それでちょっと思ったことが…
私は、禅で“悟った”人は、「いつ死んでも死を受け入れられる」ようになる、というか死への不安から解放されるようになると思っています。
普段「私」だと思っている「私」が「ない」ことを体験するのが悟りだと、悟った人の話を聞いて私は考えています。
昔の禅僧たちもみんな同じことを言っていて、私が好きな盤珪禅師なんかは
「不生」
と表現しています。
生まれてないから、死ぬこともない。不生のままでいろ(考えるな)と。
有名な禅問答にも
「父母未生以前本来の面目は何か」
というのがあります。父と母が生まれる前の私の状態は何か答えよ、と。
「私」が「ない」ことを体験するのが悟り(見性体験、心身脱落)であり、
「不生」も「父母未生以前本来の面目」も、その体験を指していると私は思ってます。
(悟ってない人がこういうこと言うのは本来ダメなんですけどね。叱られます)
(そのためには、日常生活でとにかく「言葉で考えない」ことを徹底し、自我を捨て去る必要があります。座禅はその練習というか、土台みたいなものです。本来の禅は、座禅だけではなく日常生活全般に波及するものです)
悟りを体験したら、死んだら「父母未生以前本来の面目」、「悟りの体験」に戻るだけ(私は悟ってないので想像ですが…)
死への不安は消えます。
「不生」という言葉を用いたら、死ぬことすらないです。生まれてないので。
これまた有名な禅問答に、
「禅とは何でしょう?(≒本当の私とはなんでしょう?)」
「庭の柏の木が見えるか?」
というものがあります。
そういわれて柏の木を“見上げた”「私」こそ、「父母未生以前本来の面目」=「本来の私」です。多分。(この表現変な宗教みたいで好きじゃないんですけど)
禅とは、頭で考えるのではなく、そう言われ無意識に柏の木を「“見あげた”自分」が「本来の面目」であるということに,
悟りを経て気付くことだぞ、と、弟子に教えてあげているんですね、多分。(この解釈あんまり自信がないです)
現在進行形で柏の木を“見ている”ときは、私のことなど何も考えていません。改めて、意識し直しても、それは「柏の木を“見ていた”私」、思考によって作られた偽物の「私」です。
「私とは何か」という思考から生まれる「私」や、
普段「私」だと思っているものは、本当はない。
「本来の私」は思考・言葉で対象化することが絶対にできません。
(「本来の私」という表現は誤解を生む可能性が高いです。多分。「本来の私」とは西田哲学で言う「絶対無」に相当します。絶対無の方が誤解が少ないと思います。多分。)
話を「めがね」に戻すと…
目の前に海がある。海を“見ている”「私」がここにいる。(そういう映画です)
そして、何が自由か知っている。
(本来の私を知っている≒悟りの体験を経て、私がないことを知っている。
確かなことは一つ、ただ、海を“見ている”私が、ここにいる。)
だからこそ、死を恐れず、自由に生きることができる。
……
あれ、繋がった???
そんなに深い映画なのかこれは???
…多分違うだろう( ゚Д゚)
読み返すとヤバい人見たいで、なんだか心配になってきましたw
大丈夫です。おかしくなってません、多分(゚Д゚;)
私はまだ悟ってないので、こんなこと言ってたら叱られそうです…。
