掲題の対談記事がサンデー毎日に掲載されていたので、一部を紹介します。解剖学者の養老孟司さんと作家の高村薫さん(大学の3年後輩)が「人と人をつないで来た言葉」に関しての危機感を吐露されています。
「言語環境の変化」
高村さん 「私は1953年生まれですが、私の世代は、生きる中で吸収してきた言葉で持って自分の世界を構築してきた。で、そこに見たことのない、聞いたことのないようなものが入ってくると、それを自分の世界のどこに位置づけようか、これは何だろうと考える。そのためには、ある程度自分の言葉で自分の世界を築いていなければできない。まさにそのために、私たちは本を読んだり人の話を聞いたりしたわけです。
今私が痛感しているのは、言葉がインターネットの中の電気信号のやりとりに近くなって、言葉の持っている『世界を創る』という昨日が果たされていないということなんです。」(山口コメント:コミュニケーションの道具であるべきインターネットが言葉の足を引っ張っている。)
「テレビを見てろ」
養老さん 「例えばテレビを見ていますね。そこでは進行しているストーリーに対して見ている側は一切手を出せない。中略 自分が働きかける余地のないのに事態が進行することが当たり前で、そういうことが普通にあると、少なくとも、目の前で起こっている世界と自分に行動が全く無関係であるという体験を、子供の頃からずうっとしてくるわけです。 そういう世界におかれた子供が自分というものを失って行くのはごく普通のようなきがします。それを大人は当たり前として『ちょっとあんた、うるさいからテレビ見てなさい』って。昔は『外に言ってなさい』って言ったんですが。
外に行けば、日常生活があって、他人がいて、隣近所には爺さんやばあさんがいたりして、まさに有機的に子供は生きているわけです。しかし、今は『テレビを見てろ』」 (山口コメント:私は爺ちゃんや近所のお兄さん達に育てて貰った面が大きいので良くわかる。)
「言葉と自分とを切る世界では個人なんか消えて当たり前だ」
高村さん 「今の学生さんは自分の興味のある情報だけつかまえてあとは切り捨てる。これはたしかに生きる知恵かも知れません。けれども、そうして切り捨てて自分を守る結果、個々の人間がバラバラの情報を持ち、世界がバラバラになっていく。言葉と言葉が通じなくなってくる。後略」(山口コメント:某国の政府も同じ)
養老さん 「言葉を自分のつながりを切るにあたって彼らが何と言っているかと言うと、公平・中立・客観的と言っているように僕には見える。そこでは一人一人の立ち位置が違うことによって、同じものを全員が見ても眼に映る姿はそれぞれ違っているということが、消されています。」(山口コメント:これは今のマスメディアにも教育現場にも当てはまると思われる。)
高村さん 「当然批判精神なんかは働かない。」(山口コメント:日本国民全体にその傾向がある。)
「八百萬神も工業社会の理屈も分かる日本語の復権を」
高村さん 「前略 都市文明では自然としての人間の身体と人間が獲得してきた言葉とをうまいこと折り合いをつけることに苦しんできた。その苦労を21世紀の世代も、もう一度やった方がいいのではないかと思うんです。」「日本人は世界の中でも特殊な立場にあって、近代的な自我を西洋から輸入しながら同時に日本的な身体も持って、両方をうまく折り合わせようとした、そういう言葉を持ってきたと思うんです。ですから私たちはとても微妙なバランスの中で、微妙な存在としての日本人であり得た。後略」
養老さん 「前略 日本語はだから世界の言語とは違っているし、ある意味では世界の最先端を行っているということを。日本人は認識しなければいけませんね。」(山口コメント:日本語を大事にすることが、他の言語や文化との距離も縮めることになる。)
山口実