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思想家気取りの落書帳

思想家気取りの管理人があることないこと書きなぐります。

自分は、アニメの作画の領域にAIが進出することには肯定的だ。
 
自分はアニメが好きだ。
自分が不満なのは、漫画やアニメは作るのが物凄く大変で、ストーリーの情報量に対して進行が遅い点だ。
もっとたくさん見たい、もっと早く見たいという想いがある。
勿論、それを楽しむ楽しみ方もあるのだろうが、自分はできるだけ色々なストーリーはまとめて見たいという願望も持っている。
 
AIが作画の領域に進出していくなら、この制作速度は飛躍的に上がることになり、製作費も軽減されることになる。
最近では自動で作画や彩色を行うシステムなどがあり、AIはますます創作の分野に進出している。
つまり、アニメはもっと短いスパンで多く作られていく可能性があるということだ。
この制作の時間・金銭両面でのコスト削減を、自分は視聴者としてとても歓迎している。
 
もう一つ、自分が作画へのAIの進出を歓迎する点は、作画の製作費が少なくなれば、その分だけ他に回すことができる予算が増えるという点だ。
自分は、割とどのアニメにも出て来る声優が同じという状況が余り好きではない。
アニメの制作が簡単になれば、製作されるアニメの本数が増え、結果として声優のような、人間にしかできない仕事が増えるのではないだろうかと、自分は考えている。
 
自分が危惧しているのは、アニメが簡単に作ることのできるものになったなら、日本の外でより活発にアニメが発信されるようになってしまうようになることだ。
技術の発展は止められるものではない。
アニメというのは、海外にも誇ることができる日本の文化だ。
であれば、この流れに取り残されるような結末だけは避けてほしいと、自分は考える。
自分は車イスはもっと一般的なツールになっても良いのではないかと感じている。
 
車イスに機能を追加してやれば、どこでも机とフカフカの椅子が用意できる。
かばんやPCケース等を一体化させてやれば、いつでもどこでもリラックスしながら自分の時間を過ごせるだろう。
 
実際このような形式に近い製品は有るようだが、まだまだ洗練されていないように自分は感じる。
 
カーボンフレームによる軽量化、ノートPCを考慮したかばん・小物入れ等の充実、雨を考慮した防水設計、机を出し入れ可能、日光や雨を遮る窓有りのフード付き、フットレストやリクライニングを完備……。
 
一部を実装している製品は見つかったが、全部を実装している製品は見つけられなかった。
 
妄想的には全人類車イス生活も近い。
出典は忘れてしまったが、少し前に「今あるサービスの内、時代遅れになったサービスは新たな別のサービスによって置き換えられてしまう」、という旨の意見を聞いた。
 
自分はこの意見に強く賛同する。
過去から残るサービスの大半は、過去の状況に対して最適化されたものであって、現代に最適化されたものではない。
例えば今問題になっているJASRACなどがそうで、過去にはメリットが大きかったと思われるサービスを維持することに必死になるあまり、本当に大切にしなければならない存在の不利益が、相対的にも絶対的にも大きくなってしまい、結果としてLose-Loseの関係となってしまうという状況は散見される。
何かと何かの中間に挟まっているサービスの場合は、連鎖してLose-Lose-Lose-...という悪夢のような状況すら生まれる。
 
日本という尺度で見ると、日本人は非常に時代の流れというものに疎いように感じる。
あるサービスが置き換えられる状況になったとしても、それを理解せず、理解しようともせずに愚直に現在のサービスを維持しようとする。
この傾向が、日本では今まで分散していたサービスを集約するような、大きなプラットフォームが生まれにくいという状況の一因だと、自分は感じている。
 
現在のサービスの置き換えは、大半が機能の集約によるものだ。
企業-顧客間の様々な距離の短縮と、並列に存在する同じようなサービスの統合による単一システム化等がそれだ。
つまり今のサービスは縦方向と横方向の距離を縮めるという形で最適化ができることが多いと考えられる。
これが行われておらず、収益が悪化しているならば、そのサービスは時代遅れということだろう。
 
基本的にサービスの置き換えは、ユーザーにとってプラスに働くことが多いものだ。
時代遅れなサービスは、何もしていなくても存在するだけでそれに関わる全ての人間を不幸にしてしまう。
特に本来置き換えられるべきサービスが、その巨大さという一点のみを理由に残り続けてしまうと、本当にどうしようもない。
自分は、FPSゲームをやり込んでいたことがある。
その時に感じたことは、上達する人間は必ず前に出ていたことだ。
 
初心者の大半は、自分のスコア、K/D比が悪くなることを嫌って後ろに引っ込んでいることが多い。
確かにそうしていると、まともにプレイできている「ようには」見えるだろう。
しかし、そうやって後ろから撃ち合うだけで覚えられるのは限られた場面での撃ち合いだけで、例えばどのポジションを確保すると強いだとか、どのルートを通ると敵にバレにくいだとか、そういったことを覚えることはできない。
ただ何も考えずに撃ち合うだけでは、ただ撃ち勝った、ただ撃ち負けた、ということ以外には、何も得ることができないのだ。
 
一方、前に出る人間は、最初必ず撃ち負けることになる。
どこで敵と会うか、どこで待ち伏せをされるか、どこからどう狙われるかを知らないのだから当然だ。
撃ち合いにすらならないことも多いだろう。
しかし、そうやってやられた記憶は、やり返すことへと繋がっていく。
強いポジション、待ち伏せの仕方などはそう変わるものではないのだから、そのまんま返しでも割と通用するものなのだ。
創意工夫や神プレイなども、結局はそのまんま返しの延長線上にある訳で、まずそのまんま返しができなければ、できるものではない。
自分一人の自己満足の世界から抜けて、敵をしっかりと見据えなければ、相手が居る時に勝つことはできなくなる。
 
現実世界でも、このことはあまり変わらないと、自分は考えている。
このことを考えてから注視していると、自分の見ていた限り、凄いことをやった集団の中には、必ず前に出られる人間がおり、伸びていく人間は必ずどこかに踏み出して、前に出ていた。
そして伸びていかない人間は、必ず前に出ることをしていなかった。
 
人よりも凄くなる為には、まず前に出てみることが重要だと自分は考えている。
少なくとも、前に出るという動きだけで、見えるものを変えることができる。
そして前に出るならば、早ければ早いほど良い。
自分は、日本の学校では既に個人を評価し切ることができなくなっていると考えている。
 
現在、社会の中で必要とされている能力は多くある。
この能力は大まかに2つに分けられる。
リーダーシップ、コミュニケーション能力といった、人間関係に関する能力、簿記、プログラミングなど、実務に関するような能力で2つだ。
勿論能力は人間関係と実務双方に関わるものだが、まずここで重要なことは、多岐に渡る能力と評価尺度に対して、学校で学ぶことができる部分が足りなくなっている点だろう。
 
最近では大学の企業化、企業の大学化という変化が指摘されているが、労働者として必要とされている能力を大学で学ぶという方向に変化し、それでも足りない部分を鍛えるなら、大学のような形式で、つまり先生を付けて指導を行った方が習得効率が良いのだから、これは当たり前の話だ。
 
話を戻して、この状況の何が問題かと言えば、学ぶことができないという状況と、学ぶための仕組みがないということで、学校が個人を評価する尺度が無いという状況だ。
大学まで行ってしまえば状況は多少変わってくるが、少なくとも高校までは学びの大半が学校によって制限されてしまうため、この問題はより大きい。
 
自分は、『学ぶべきこと』とは、個人が好いていて、やりたいと思えることだと考えている。
それこそが最も個人のやる気を起こさせ、それによる評価が自信へと繋がっていくからだ。
逆に言えば、やりたいと思えないことをやったとしても、それが身に入らないままに時間が過ぎて、個人のやる気を下げ、自信や能力の喪失へと繋がっていく。
 
また評価の尺度が無いという状況は、やる気の喪失に始まる負の螺旋の進行に拍車をかける。
評価の尺度を持たない学校からすると、やる気の無い人間は、能力が無く、向上心も無く、学校に居る必要すら無い駄目な人間としか映らないからだ。
先生からは扱いが悪くなり、教えられる側もそれを感じ取ってどんどん嫌になっていくだろう。
更に言えば、学ばせることが制限されている学校という環境では、大人の側の視点は教える内容だけに制限されるということでもあるため、どんどん視野が狭まっていく。
 
実際は、やる気の無い人間というのは、やりがいに出会えていないだけであることが殆どだ。
冒頭の通り、社会で必要とされている能力は多岐に渡るのだから、合うもの合わないものがあるのは当然のことだ。
 
学校は、教えられないことについては、教えられないということを知っているべきだと自分は思う。
学校など社会から必要とされるスキルのほんの一部しか教えられていないのに、その評価基準をさも世界の全てかのように振りかざして評価をしようという姿勢は正すべきだ。
理想としては、学校では評価できない物事があるならば、それが評価される機会と引き合わせてあげられる位の視野があって然るべきだ。
少なくとも今の社会では、学ぶ機会ならばどこにでもいくらでも落ちている。
 
学校で教えられることには限界があり、学校で評価できることに限界があるというのはしょうがないことだ。
だからこそ、個人を評価するために、必要とされるのは視野の広さではないかと、自分は思う。
こちらの記事を元に、差別を受けない人間を増やすための方法を考える。
 
1つは、"正常"とされる人間を減らし、差別を受ける側の人間を増やすことだ。
要するに、片手の無い人間が差別を受けるのならば、片手の無い人間を増やすという方法だ。
問題として大きくなるならば、政府など大きな存在も動かざるを得ないし、仲間が増えるなら、同族意識が生まれていくことで、コミュニティーが生まれる。
この問題の場合には差別を受ける人間を増やすとなる訳で、外的な要因で受動的に差別を受ける側が増えてしまうことはあっても、能動的にそれを実行するのは相当に難しいだろう。
 
1つは、法整備など、現在の社会という枠組みの中で、差別を受けないような状況を作ったり、コミュニティーを作っていくことだ。
これは最適化に分類される方法で、法やマナーなどを考え、作っていくことで、現在の社会に受け入れられる人間をできるだけ増やしていくというやり方だ。
このやり方は、現在の社会に差別を受けている人間が受け入れられるだけの容量が有るという前提の下に成り立っており、この社会の容量が小さなうちは実現が難しい方法だ。
少なくとも、差別を無くすためにはじき出される人間が増えるようなことをすることは、すべきではないだろう。
 
最後は、技術の発展や、豊かな社会の実現によって、受け入れる社会の容量を増やすような方法だ。
近年、現実に実現された状況としては、ネットワークの発展によって差別を受ける側の居場所は広がり、社会に受け入れられるようになってきていること等がある。
電子機器が発展する前には、四肢が欠落した人間には力仕事が難しかったが、現在ではPCが操作できるならある程度仕事ができるなど、そういった点でも社会の容量というものは技術によって明らかに広がってきている。
更に今後実現されるであろうことは、義手などの発展によって四肢の欠落が補われる、医療技術の発展によって難病が克服される等があるだろう。
 
この記事で主張したいことは、声高に社会への法整備やマナーを求めることも必要だが、社会の容量を拡げることもまた、立派な差別を減らす方法と言えるということだ。
 
1つ確実に言えることは、こちらの記事で書いたことの逆を言うと、豊かな社会では切り捨てられるべき何物も存在しないということだ。
勿論、この豊かになるという状況は実現に時間が掛かるものだが、逆を言えば時間さえ経てば解決する問題だとも言うことができる。
長時間ネット使う子、イライラ傾向 勉強への自信も低下
こちらの記事を読んで考えたことを書く。
 
記事では大まかに、「長時間ネット使う子、イライラ傾向 勉強への自信も低下する。 ネット依存の子どもほど社会性や学力が身につきにくく、これは深刻な状況で対策が必要だ」、という内容が主張されている。
自分はこの主張が間違っている、というよりは的を外していると感じている。
 
まず重要なのは、「勉強への自信が低下している」ということだ。
この事実は、決して勉強をしたくないという意味ではなく、むしろ『もっとこうなりたい』という向上心を子供が強く持っているということなのではないかと自分は感じる。
 
ネット上には、面白いことをやっている人、面白いものを作っている人、様々な見識を持った人間があふれている。
そういった人間に対して、人間は『自分と比べてどうか』という感情を抱きやすいものだ。
特に経験の少ない子供ほど、自分の知らないこと、経験したことが無いことが多く、『自分と比べてどうか』の先には敗北感があることが多い。
 
特に学校では、ネット上で自らが面白いと感じることを実現する方法など、何も学ぶことはできない。
何かやりたいことがあって、自分にはそれを実現するための努力もできない。
これは焦りへと繋がっていく。
そして自分のやっていることにも意義が感じられず、自信を失っていくだろう。
イライラし、自信を無くすという状況は、まさにこの焦りの表れではないのかと自分は考える。
 
この感情は決して特殊なものではなく、上手く噛み合えば強い向上心となる。
勿論、自らに欲求する物が多くなればなるほど、自信の喪失や焦りには繋がりやすいものだが、重要なのはその感情との付き合い方を教えることではないだろうか。
少なくとも、『何かをしたい』という向上心は、悪いものではないはずだ。
 
社会性や学力という観点も、こう考えるとおかしな切り口に見える。
 
社会性に関しては、数多あるやりたいことの中で、波長が合う人間なんて極わずかである以上、どうしても社会性を持たせたいというのであれば、そのための場を用意して然るべきだろう。
少なくとも、無理矢理に話題の合わない人間と喋らせようとする方が子供のためにならないと、自分は感じる。
何なら同年代等に拘らず、大学生や社会人など、既にある程度知識や技術を持っていて、教える側に回ることのできるような人間と引き合わせるというのはどうだろうか。
 
学力という観点でも、現在の5科目や9科目程度で判断できるほどに子供の未来が狭くはない以上、もっと別の方向に伸びた子供には別の尺度の評価をして然るべきだろう。
学校という狭い範囲の中だけで子供を評価しようというのは、すでに時代遅れな考え方ではないだろうか。
 
一番やってはいけないことは、子供が見ている道を狭め、「お前の場所なんてない」という態度を大人が取ることだと、自分は考えている。
そんな態度を取られてしまえば、子供は狭い場所へ狭い場所へと追い詰められてしまうだろう。
 
自分は、「ネットを長く使う子供ほどイライラし、勉強への自信を喪う」という状況は、現在の子供の世界の広さに対して、学校が余りにも狭いという事実の表れではないかと考えている。
そもそも記事の主張は、「理想的な人間とは学校依存の人間である」という風に主張しているように感じられる。
これは悪い読み方だが、子供の行動を制限するくらいならば、行動したいという欲求を向上心へと変えていくことが、現代の教育に必要なことだと自分は考える。
対策などと言って反対に引っ張るくらいならば、環境を整えて後押しするのが大人の役目ではないだろうか。

毎日新聞より、以下の記事を読んで考えたこと。

バードストライク よそ見原因か 餌につられ視線下に

 

この記事は、風力発電の風車のブレードに激突して死亡する鳥類が後を絶たず、その対策のための原因調査の結果報告を簡単に纏めたものだ。

 

記事の内容を簡単に纏めると、『死んだサケなどの餌を撒いた場合とそうでない時とで、飛行中のオジロワシの視線が下を向く時間の割合を302羽について観察し、成鳥ではそれぞれ18.3%と6%だった』、という調査結果の報告だった。

 

この記事を読んで、そりゃあ空にそんな障害物は普通無いもんな、という感想を持った。

 

記事の内容で気になったのは、『成鳥では』という括りだ。

裏を読むと、まだ幼い鳥はこの数値がぶれていたのではないだろうか。

要するにこの餌を見つけると18%、見つけていない時に6%という数値は、そのオジロワシが成長していく過程の中で自然と身に着けた技術なのだろうと思う。

 

自分が車を運転するときも、ある程度の時間は正面だけでなく後ろや歩道、景色などを注視している時間は有るし、特に危険そうな状況や、飛び出してくるかもしれない歩行者・自転車等を見つけるとそちらに強く注意が向く。

車などでは相手がこちらに配慮してくれたり、そういった優しさがある程度期待できるが、自然の中など全くそうではない訳で、その環境で培われた、この周囲への注意の配り方は人間のそれよりも、もっと生存のために具体化された数値なのではないだろうか。

 

だからこそ、何も無かった所にいきなり出来て、当たる確率が低く、かつ当たれば学習の間も無く死という、風力発電機へのバードストライクは減らないのだろう。

最適化されてしまった形は、環境の変化に弱いものだ。

 

記事は「オジロワシなど野鳥は獲物探しに夢中になって風車の羽根に気付きにくいのではないか」という結論で纏められているが、これは少し人間に寄り過ぎた解釈に感じられる。

 

風力発電機を作った時には人間の視点しか無かった。

今は結果として鳥の視点が見えている。

もし鳥の保護に力を割くなら、もう少し鳥の視点を考えるべきではないかと、自分は思う。

自分は、全力を出すことと力むこととは全く違うと考えている。
 
張り切ったり、全力を出すことに固執したり、何か成功を掴んだりすると、人は力んでしまいやすい。
しかし、力んだからといって何かが上手くいくという訳でもない。
 
そもそも何かをするためには技術が必要で、その技術が自分という存在の最大効率を発揮する瞬間は、脱力から始まる。
つまり、脱力せず常に全力を続けるなら、どの瞬間にも最大効率は訪れないということだ。
スポーツの世界ではよく言われることだが、特に頭脳労働の絡む世界にこの考えを持ち込む人間は少ないように感じる。
要するに、物事に流れや時間感覚、メリハリが感じられないのだ。
 
全力を出すということは、自らを状況に最適化し、目標に対することであって、自分が全力を出した気になることではない。
 
自分は、力む内はまだまだなのだろうと思う。
力まないことを意識してできるようになって二流、意識せず脱力ができるようになって初めて一流なのだろうと。
力み、焦り、見栄などは自分の切れ味を下げるということだけは常に覚えておく必要があると、自分は考える。
このような記事を書いたが、実際に白黒がはっきりしているか、それに近い状況というのもある。
白か黒かというのは多角的な視点と知識によってのみ具体的にはっきりさせられるもので、逆にそういった努力を行った人間が居たならば、その状況には白黒がはっきりとつく。
 
しかし、白黒がついた状況とそうでない状況を区別することは難しい。
黒の側が嘘まで交えて相手への批判を行いつつ、自分は被害者面をするような場合だってある。
その場合、自らの手でどちらが白か黒かをはっきりさせるためには、両方やその周囲の言い分を検証していく必要がある。
 
勿論、そういった主張が行われている状況では、双方が主張の根拠を提示しあっているだろうから、完全にゼロからの検証という訳ではないが、それでもある程度労力が必要なことには変わりない。
そしてこの検証を面倒がって飛ばし、そのまま白黒を付けようとすると、大きな間違いとなる。
この状態で主張などしてしまえば、白を黒と言ってみたり、黒を白と言ってみたり、的を外した主張をしたりと、白の側も黒の側も、自分までも損をする、文字通り誰も得をしない結果を生む。
 
白黒をつけること、つけないこと、共通するのは具体的な検証・考察の必要性だ。
白黒をむやみにつけたがる人間は、恐らく努力を以って白黒を付けた人間の真似をしているつもりなのだろうが、残念ながら具体的な検証・考察が足りていない。
白黒をつけないことや、一方的な状況を見て軽々に逆張を行う人間も、根拠も無く白黒つけないという点では多少進んでいても、やはり検証ができていないという点は変わらない。
 
少なくとも、自分が白黒を判断できていない状況では、外部への行動を起こしてはならないと、自分は考えている。
外部への行動は、あくまで自分のレベルを上げてから行うべきもので、特にその行動で他人に迷惑をかける可能性があり、時間制限も無いなら、決断はできるだけ遅くするべきなのだ。
そう心がけることで、少なくとも白黒がついた状況を見誤る可能性を減らすことができると、自分は考えている。