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思想家気取りの落書帳

思想家気取りの管理人があることないこと書きなぐります。

自分は、情報はいつだって中立で、それを歪めているのは自分自身、個人の感性だと考えている。

 

例として、最近話題になった、犯人は同人誌の真似をしたという性犯罪をとる。

この「犯人は同人誌の真似をしたという性犯罪」という情報は、状況の説明でしかないが、人間はこの情報の解釈に、自分自身のイメージを用いる。

つまり、この情報を見た時に、反射的に何かしらのイメージを抱いているということだ。

 

そのイメージは、「同人誌を読んで犯罪を犯したんだから同人誌が悪い」だとか、「犯罪者が何を言おうが犯罪者が悪い」だとか、人それぞれだろう。

しかし、「犯人は同人誌の真似をしたという性犯罪」という情報には、何がどう悪いだとか、そんな情報は含まれていない。

 

善悪や事象の相関は、そこに研究といった絶対的なデータが無い場合には、個々人の価値観による印象としてしか存在しない。

 

ここで注意したいのは、中立である情報に勝手な解釈を与え、それを基に批判を行ったり、何かしらの権利を制限しようとしたりするのは、全く正当性の無い行為だということだ。

個人の解釈と情報とは、同一のものではない。

その情報から個人が感じた因果関係は、それを証明する情報が無い限り、個人の主張の範囲を出ることはない。

そして、個人の主張は絶対ではない。

 

個人の解釈と絶対的な情報とを取り違えた主張は良く目にするが、情報の中立性を無視した主張を押し通そうとすることは、そのメリットよりも弊害の方が大きくなる。

何故なら、その情報に対して反対方向の解釈を持った人間を大きく無視することになるからだ。

 

客観視を心がけるなら、情報を中心に置き、その周りを回るように考えるのが良いだろうか。

自分は、何かを為そうとするときには、広く見る姿勢と、深く見る姿勢とを使い分ける必要が有ると考えている。

 

広く見るというのは、自他共に疑い、自らが抱く目標が正しいのか、自らの現在地は、速度は、加速度はどうなっているのかと、常に見極め続けることだ。

こうして疑わなければ、落とし穴に落ちやすくなってしまう。

死角は無くならないが、できる限り死角を無くそうというのがこの姿勢だ。

 

深く見るというのは、自らの信条を疑わず、その実現のために何がどれだけ必要かを探り続けることだ。

頑なさと情熱を持っていなければ、自分の正しさを世界に証明することはできない。

何にも優先して前に進もうというのが、この姿勢だ。

 

この2つの姿勢は、意識して使い分けなければ、互いに弱めあってしまうと、自分は考えている。

極端に広く見ることは自らの信条への疑念を広げ、極端に深く見ることはただ視野を狭めることと同じになってしまう。

 

また、この2つの姿勢のどちらがどれだけ必要とされるかは、場によって変わってくる。

リスクを検討する際に視野を狭めてしまえば、リスクに向き合うことはできず、自らの信条を表現する際に視野を広げてしまうと、他人の考えの良い点悪い点にばかり目が行って、結局自分の理想には辿り着くことができない。

 

この2つの姿勢は決してどちらが間違っているというものではなく、重要なことはバランスと使い分けだ。

自分は、周囲の状況から生まれる問題とその解決を考えるときには、問題を正規分布のように捉えると良いと考えている。

正規分布の説明に関しては省くが、正規分布のグラフは以下のような形になる。(画像はGoogle検索より)

生活保護を例に取り、この見方について説明する。

 

生活保護というシステムを利用する人間を、①生活保護によって不正に良い生活をする人間、②生活保護によって適正に救われる人間、③生活保護が適切に受けられずに苦しむ人間と分ける。

仮に横軸を生活保護のシステム中での幸福度、縦軸を人数とし、①~③を正規分布に当て嵌め、②を中央に、①と③を両端に持つグラフを作る。

更に、簡単のために①:②:③の比を1:2:1と置く。

 

まず注目してほしいのは、システムが持つ問題が両端に来ている点だ。

生活保護に関する問題に限らず、システムが持つ問題というものは①と③の両方、あるいはもっと多方面に存在する。しかし、議論の場などに出てくる意見は、片方の問題しか認識していないとしか思えないものが多い。

 

次に、自分が主張したいのは、このグラフ全体を単純にずらすような改善策は、結局何の解決にもつながらないということだ。

例えば、①に当たる人間を減らすために、生活保護を受けるための条件を厳しくしたとしよう。

すると確かに①に当たる人間の比は0.5に落ちるかもしれない。

しかし、それが②に当たる人間の比を2.5にするとは限らず、①:②:③の比が0.5:2:1.5になっただけ、というような結果を招くことすらある。

適正に生活保護を受ける人間の数は増えておらず、しかも③に増えた0.5は何か悪いことをしたわけでもなく、ただとばっちりで生活保護からはじかれてしまっている。

これは何の解決にもなっておらず、むしろ適正な生活保護を受けられない人間が増えるという新しい問題を引き起こしただけだ。

このような問題は実際に起きている

 

今回は生活保護を例に取ったが、これに限らず、ある一方からのみ問題を認識するのはとても危険なことだ。

大概の問題は両極にあるもので、問題になっている人間にも種類があり、更には何の問題も無い人間も居るということをしっかり見なければならない。

その解決策が、他の問題を抱える人間や、何の問題も無い人間に悪影響を及ぼすべきではないはずだ。

 

また、結局はそのような問題を引き起こす根源が絶つ必要があるということも忘れてはならないだろう。

昨年、反安倍の集団という違和感というタイトルで記事を書いたが、この記事に書いたように、反個人の集団は、必ず非生産的な矛盾が付きまとう。

何をどうしようにも、まず否定から入らなければならないのだから、何かを生み出すことにはつながらず、また行く先も反対する相手に依存してしまう。

そして、今回の長島氏の離党に繋がった。

 

「アベ政治を許さない」というスローガンは、確実に日本を悪い方向に進ませたと、自分は考えている。

少なくともこの非生産的なスローガンは、1年以上掲げ続けられてきた。

このスローガンが掲げられた時間は野党が建設的な議論を拒否した時間に等しく、またこの時間がどこまで延びるかは分からない。

 

自分は、長島氏の離党は、このスローガンを疑う非常に良い機会だと感じる。

一方で、この離党騒動が、かえって頑なにこのスローガンを掲げさせてしまうのではないか、という危険も感じている。

 

理想を言うなら、野党陣営で「アベ政治を許さない」というスローガンに反対する人間は、積極的に離党をしていくべきだと感じる。

非生産的な野党など、存在するべきではなく、何よりこのスローガンは政治家から個性を奪ってしまうからだ。

自分は、人類の平等を謳う時に、他人に期待するような発言はすべきではないと考えている。

 

まずそもそも、人類の平等に関して他人に期待する時、その期待の基準は、発言者やその信じるものになっている。

つまり、平等のために、他人に自分と同じ考え方をするという努力を押し付けるということになってしまうだろう。

他人に対して期待する発言をしてしまった時点で、もう既に平等が否定され、他力本願な状況が肯定されてしまっているように、自分は感じる。

 

更に踏み込むと、基準が自分になるということは非常に危険なことだと自分は感じている。

 

基準が自分になってしまうということは、他人の都合や事情を無視することに繋がりかねない。

どうして他人から撃たれる状況で自分だけ撃つなと言われて賛同できるのだろうか。

自分が損をすることに同意しない人間が絶対数として多くなるのは当たり前の話だ。

 

また、歴史を振り返ると、大概の他人に期待する思想は、その基準に対して目が行くばかりで、最終的に内部分裂と悲劇をまき散らすという結末を残していることも無視できないだろう。

果たして平等とは何を基準にしていて、どのようなものなのか。

基準すら曖昧なものを他人や自分に期待しても、期待した通りの結果にはならない。

 

こういった話をすると、自分が努力をしているのだから、他人が努力しないのはおかしい、という感情論が出ることがあるが、結局のところその努力も、絶対的な結果を出せていない以上、方向を違えていると疑ってかかるべきだ。

 

自分は、平等を謳いながら他人に期待する発言から、矛盾、危険、浅はかさの三つしか感じ取ることができない。

自分は、学びはもっと自分のやりたいことであるべきだと考えている。

自分の得意分野ややりたいこと、実現したいことのための学びだ。

 

こういった意見を言うと、「わがままを言うな」、という内容の反論をされるが、そもそも前提として、今社会にある学ぶべきことの量は、えり好みもできないほど少ないのだろうか?

仕事が多様化し、求められる知識や技能が多様化し、その中で何故、学びを制限する必要があるのか、自分には分からない。

社会が豊かになり、価値が多様化したため、その中から価値をつまみ食いするようなことをしても、それが役に立たないということは決して無くなっている。

 

人間が何かをやった時、良い結果を出すことができるのは、得意なことに関してだ。

学ぶ分野をえり好みできる状況なら、当然得意な分野を選んだ方が良いに決まっている。

その方が本人の自信になり、将来の社会貢献になり、誰も損をしていないだろう。

 

無論最低限というのはあるのかもしれないが、個人的には、求められる最低限が増えても減らないような状況があるため、現状に関してこの反論は通らないのではないかと感じている。

個人に多大な負担を強いるような最低限は、最低限と言ってよいものではないだろう。

 

結局、評価する側が評価できていないだけで、評価されない知識や技能には、評価されるそれらと同じだけの価値があり、同じだけの努力が詰まっている。

むしろ、制限の中で狭く凝り固まった視野を持つ人間が集まるような状況の中では、分野を外した知識を多く持つ人間の方が重宝される場面もある。

 

学ぶことに関して言えば、遠慮したり、力をセーブして良いことは殆ど無く、それは良い結果には繋がらない。

また、凝り固まった価値観の中では、何を学ぶべきで、何を学ばせるべきなのかを正常に判断することはできない。

そして全力での失敗は必ず悪い結果には繋がらないものだ。

 

他人の全力を制限する必要が出たなら、それは既に前提がおかしい中での結論だと疑った方が良いと、自分は感じる。

自分は、つい先日沖縄旅行に行ってきたが、その中で「世界が平和になりますように」という言葉がとても嫌いになった。

それは、この言葉が、とてもとても軽くてフワフワしたものに聞こえるようになったからだ。

 

自分は旅行の中で、沖縄戦跡国定公園と、ひめゆりの塔へ行った。

残念ながら時間が無く、完全に回り切ることはできなかったが、その中で、多くの個人の人生と、それに訪れた最期の一端を感じた。

沢山のメッセージと名前が刻まれていた。

 

しかし、それはただそれだけだった。

名前はあっても、その人生や人柄、顔や体格など全てが記されている訳ではなかった。

人格があって、人生があったはずなのに、そこには名前しかない人間が大半だった。

日差しの中で海風がとても冷たかった。

 

自分は、沖縄旅行の後も、必ずしも戦争することを否定する気にはなっていない。

自分にその気が無くても、戦争には相手が居て、攻めて来るなら戦わなければならないからだ。

少なくとも今の日本は、何千何万かの死者を出してでも国を守った方がその後のためになる思っている。

一方で戦争になれば、またあれだけの、もしかするとそれ以上に人が死ぬのだろうとも思う。

 

今の時代なら、データとして、名前以外にも沢山の情報が保持できるのかもしれない。

しかし、それだってやはりそれだけなのだと思う。

VRやAIの技術などが発展して、再現した人に出会うことができるようになったとしても、やはりそこには体温が無く、とても寒い場所となるのだろう。

 

世界が平和になるということは、あの場所に刻まれた名前の何倍もの人間が、争わず、奪わずに生きられる状況を作り出すということだ。

それは生半可な努力で達成できるものではない。

その努力を高々一言でくるんでしまう、「世界が平和になりますように」という言葉が、自分はとても嫌いになった。

 

あの場所に積み上げられた名前は、それを持っていた個人の人生は、そんな曖昧な、努力のかけらもない、他力本願な言葉で何とかなったものなのだろうか。

「世界が平和になりますように」と祈っていたなら、彼らは彼らの人生を全うできたのだろうか。

 

「世界を平和にする」、途方が無くても、現実味が無くても、達成できないことが分かっていたとしても、自分はこの言葉をこそ尊ぶべきだと感じる。

「世界が平和になりますように」、なんて祈っても、争い、奪う人間が居なくなる訳ではない。

千羽鶴よりも必要なものがあるはずで、本当に戦争を無くすなら、原因を解決する必要がある。

あるいは自分達だって、戦争を無くすために何かをやってもらう必要があるのではないだろうか。

 

実現するためには、必ず行動しなければならないはずだ。

旅行から帰った今も、戦争、政治などに自分なりの結論すらまともに出せていないが、自分から学び、挑戦し、歩みを止めないように努力することだけは、決意として持っていたいと強く感じている。

※追加情報にてナンバー11の予想が的中!

 

書くネタが無いので、気分を変えて最近読んだ漫画の考察でも。

 

ナンバーズとは、漫画ダイヤのAの主人公、投手である沢村栄純が操る一連の変化球のことで、現在球種と番号の両方が判明している球種は、読んだ限り以下の3つ。

 

・ナンバー2:ツーシーム

・ナンバー4:フォーシーム

・ナンバー7:カットボール改

 

ナンバーズに関してはまだ全てが開示されておらず、判明していないナンバーには何が当てはまっているのか、というのを考察してみたのが以下、カッコで括ったものは他の人の考察

 

(・ナンバー0:ゼロシーム)

(・ナンバー1:ワンシーム)

・ナンバー5:鷲掴みの高速チェンジアップ

・ナンバー6:サークルチェンジ

・ナンバー11:スプリッター

 

何故こう考えたかというと、まずナンバー4まではnシームというのは納得が行ったので取り入れたもので、ナンバー5以降は握りの形。

ナンバー5は鷲掴み = 5本の指で握り、ナンバー6は左手でサークルチェンジを握ると指の形が6になり、ナンバー11はスプリッターの握りが同じく11の形になるから。

 

こうやって当て嵌めていくと、カットボール改がナンバー7なのは、主人公のカットボールの投げ方が独特なクロスステップを使うため、キャッチャー側から見ると全身が"7"の形に見えるからかなと。(このオシャレなネーミングは確実にキャッチャーの御幸がしただろうという点でも納得が行く)

 

考察は以上、単行本しか読んでいないので、早く7巻が出てほしい。

自分は、努力できないという状況は、本人の意志よりも周りの環境が問題なのだろうと思う。
 
そもそも努力とは、やりたいことのためにするものだと自分は考えている。
もっと上手くやりたいとか、もっと凄くやりたいだとか、そういった意志があるからこそ、努力は生まれる。
努力とは苦行やただ辛いだけのことを指すのではなく、何か実現したいという欲求の発現であるはずだ。
少なくとも、努力を苦行としか捉えられていない人間は、それを他人に押し付けている時点で間違いを自覚すべきではないだろうか。
 
合わない環境には、人はとことん合わないものだ。
自分の欲求を常に抑圧し続ける必要があるから、ストレスはどんどん溜まっていく。
意識していてもしていなくても、「合わない」という状況はそれだけで消耗を生む。
そして欲求を抑圧するために、合わない人間は他人よりも多くの時間を必要としてしまう。
この状況は、傍目には努力していないだとか、無駄な時間を送っているように見えるかもしれないが、実際はそうではないだろうと、自分は考えている。
 
自分は、それまで努力できなかった人間が、環境が変わることで努力できるようになる、という実例を知っている。
これは確かに極端な例だが、自分の形、個性と噛み合う場所に身を置くことができたなら、努力は必ず生まれて来る良い例だとも感じている。
 
もし自分に合う環境に身を置けたなら、自分がそれをやりたくてしょうがないのだから、努力していない時間は、自然と必要な休息だけになっていく。
傍目には、それこそが苦行も厭わない努力だと映っているのだろう。
 
自分がこの記事で主張したいことは、努力とは苦行ではなく、その努力が苦行と感じるなら、それは今すべきことではないのではないか、ということだ。
努力できないことに対しては、無駄に努力する位なら最低限でも良いはずだ。
 
少なくとも、今世界にはとても多くの仕事があって、努力すべきこと、学ぶべきことなど数えきれないほどある。
何かできない事をとやかく言われたとしても、環境を変えたなら、それに対して努力する必要など、実は無かったりするものだ。