思想家気取りの落書帳

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思想家気取りの管理人があることないこと書きなぐります。

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人間は現実の問題を解決することに向いていない。このことについて以下の3点から書く。

  • 人間は問題を認識できない
  • 人間は理屈を理解できない
  • 人間は現実を直視できない
人間は問題を認識できない
人間は何がどのように問題なのかを認識できる生き物ではない。身の回りの状況を正常と感じようとし、それがいかに異常な状況かを理路整然と説明されたとしても「自分はこう感じるから」と理解しようともしない。それどころか「こんな正常な状況を何故異常と言うのか、お前の話は間違っている」と、何の根拠も理屈も無く否定をする。
これは人間が社会性を持つために身に付けた習性であって、逃れることどころか認識すら難しいことなのだろう。
一方、問題の解決はまず問題を認識することから始まる。『問題が認識できないこと』を認識できないのだから、まず問題は解決できない。
人間は理屈を理解できない
例え問題を認識したとしても、次は理屈の壁が立ちはだかる。
人間は何がどのように問題なのかを理屈で説明されても、論理の構造などを理解できない。どのような時その理屈が成り立ち、どのような時否定されるのかを理解できる人間は、この世でほんの一握りだ。
また、科学や統計といった人類の英知も理解できない。ある理屈が研究によって否定されたとしても、そのことについて理解できないがために、正しくないことを「正しい」と主張し続ける。
各専門分野においては様々な定説が覆るなど日常茶飯事だが、それはあくまで最先端を修めた人間にとっての日常であって、一般に当てはまる話ではない。また、どのような定説に覆る可能性が有るかを認識せずに「可能性は0じゃない」と繰り返すのは誤りだ。
人間は現実を直視できない
問題をある程度認識し、ある程度理屈を立てた人間も、やはり現実の問題を解決できる確率は低い。
例えば、様々な団体の活動は人をどのようにどれぐらい救っているのだろうか?数字ベースでそういったことを考えて行動する人間はそもそも少ないし、そういった団体の活動も多くの場合実際に救っている人間の数はとても少ない。
こういったことを言うと「救った人間は0ではない」だとか、「行動することが大事」だとか反論されるが、そんな発言には全く意味が無いというか、そういったことを考えずに活動してどうして現実の問題が解決できると考えていたのかと問いたい。そもそも、そのような考え無しの行動は本当に現実の問題を解決しているのだろうか?人一人を救うために二人が犠牲になるようなやり方をしていないと、どうして言えるのだろうか?その「解決した」という根拠は本当に正しいのだろうか?
ここにもまた、人間は問題を認識できないという壁が立ちはだかる。ここにもまた、人間は理屈を理解できないという壁が立ちはだかる。
問題を解決するとはどういうことか
現実の問題を解決するということは、問題を解決する過程で、自分や自分達が無能であるという事実を直視し、それを証明するデータを集め、理屈を立て、問題を正しく認識し、改善するという果てしない作業だ。これに従事するつもりの無い人間が何を言っても、何をやっても、現実の問題は全くと言っていいほど解決されない。どころか、新たな問題として人を不幸せにし続けることは歴史的な事実だ。
「一人一人の意思で」、「小さなことの積み重ねで」など、耳障りの良い言葉にも全く意味は無い。構造のレベルから作り変えていかなければ、より多くの人が救われるなんてことはありえない。耳障りのよいお題目を唱えたところで問題の解決はなされない。
0じゃないというのは少ないということだ。費用対効果を考えずに使う時間など無駄そのものだ。現実の問題を解決したいと言うならば、どうすれば問題を解決できるのか、現実に真摯に考えなければならない。
現実に真摯であるということには、お題目の耳障りの良さなどは何ら関係の無いことだ。目の前の現実ではなく、より広く一般的な現実に目を向けるということだ一方これをできる人間はやはり少ない。これをできる人間が少ないということは、解決される問題が少ないということだ。やはり人間は現実の問題を解決するのに向いていない。

終わりに

お久しぶりです。毒を吐きたくなったので久々に投稿してみました。

最近ではマスコミやらEM菌やらフェミニズムやら、現実の問題を解決することを謳いながら何ら具体的な問題を解決できない、どころか新たな問題を生み出していく人ばかりが目について嫌になるので書いた記事です。こういう人を見ていると、「で、その善意って具体的にどのような効能を生むんですか?」と質問したくなりますね。

痴漢に対して反撃することの是非についての話題の中で、「たかが痴漢に強すぎる反撃をすることはおかしい」という意見を見かけたが、この意見は根本的に間違っている。

それは、痴漢は結果であって、過程ではないということだ。

 

何かされている過程の中では、「その行為がそこまでで終わる」とは断言することができない。

仮に現在たかだか痴漢止まりの行為しか為されていなかったとしても、それ以上、それこそ痴漢が『たかだか』と表現できてしまうようなことをされないとは限らないということだ。

 

痴漢は、あくまでそこまでで行為が終わったという結果であって、それ以上に発展しかねない状況、過程を表してはいない。

髪の色を理由に行われた"教育"が炎上しているが、こういった差別は、それを理由に採点を低くしがちな会社・大学が無くなっていかなければ無くならないだろう。

何故なら、日本の学校教育の至上命題は「いかに良い進路に生徒を進ませてあげられるか」となっているからだ。

 

この件については「学校が前時代的だ」という批判があるが、学校が前時代的なだけであれば、会社や大学の採用/入学の場で今だに黒髪を要求されることは説明出来ないだろう。

学校はあくまで学校の至上命題を達成するため、社会からの要求から、最も合理的な判断を行ったに過ぎないのだ。

 

学校はあくまで直接の実行者に過ぎず、それを実行させたのは日本の社会に蔓延る"前時代的"な要求だと言える。

 

現時点では、学校を変えることに意味は無い。

それどころか、変えることが悪だと言える程の状況がある。

黒髪でなければ就職させない、黒髪でなければ進学させない、そんな圧力をかけられてしまうからだ。

確認したいという欲求の裏側には、「分からない、不安だ」、という感情がある。

この感情は、事象に対して何らかの結論が出ない間、解決されることは無い。

 

不安が解決されないまま過ごす時間は非常に不毛だ。

不安に対して「ああでもない、こうでもない」と個人的な考察を重ねることしかできない。

また、確認ができていれば、対策することができるが、確認しなければその対策が正しいのかも分からないままだ。 勿論、「対策をしない」という対策だって、それが正しいと判断し、選ぶことができない。

 

不安に対する最も合理的な唯一の解決手段は、確認をすることだ。

 

自分は、どれだけ下らない事柄であっても、確認したい、するべきだ、という行動を阻害するべきではないと考えている。

特に、親や教師が子供に対して接する場合には、そのようなことをするべきではない。

 

不安なまま、対策ができないまま、時間を無駄にさせてしまう。

その間、不安を抱えた精神は安まることが無い。

「確認すること」が最も良い解決手段、解決への第一歩であるのに、その後の人生においてその選択を取りづらくしてしまう。

 

確認しようという行動を阻害することは、この3つの点で不合理だ。

 

勿論、確認しなければ事実は明らかにならず、その事実によって傷つくことは無いかもしれないが、「事実に対する対策」を必要とする人間に、そのような自己満足を押し付けることはあってはならないだろう。

 

自分は、発達障害や自閉症、鬱など、あるいは何らかの病気について、「そんな訳ない、何かの思い込みだ」と切って捨てられ、必要な対策を取れないまま、取ってもらえないままになってしまう場面を多く見かけてきた。

 

親や教師が、というのは、子供にはそれを確認するための知識(誰に聞けばよいか、どうやって調べるといいか)も、確認のために必要なコストも負担できないからだ。

つまり、確認をさせないということは、不安で、確認もできず、それをどうにかすることは絶対に不可能で、症状による不利益だけは受け続ける、希望の見えない状況に相手を突き落とすことだ。

客観的に見ると、それは非常に残酷な選択ではないだろうか。

 

不安に対する最大の解決策は、それを確認することで、それは阻害されるべきことではない。

個々人の持つ技術・技能は、それを持たない人間にはとにかく軽視されがちだ。

例えばPCをいじることや、絵を描くことなど、「ササッとできるんでしょ?」と言われてしまう場面は多く有る。

 

これらの価値の測り方は簡単だ。

自分にとってそれを達成するまでの時間x最低時給で、金額として換算すれば良い。

 

例えその解決に掛かった時間が5分でも、自分が3時間かかってもできないことであれば、その5分には最低で3時間分以上の価値がある。

それに掛かる時間が、想像もできないほどであれば、例え作業時間が1分しか掛からなかったとしても、その1分には、やはり想像できない程の価値が有ると言ってよい。

 

そもそも技術・技能とは、その解決や創造をその速度で行うための準備によって成り立っている。

技術・技能が成立しているということは、見えないだけで膨大な時間的金銭的投資が既に行われているということだ。

その価値は、単純な作業時間によってのみ測っていいものではない。

自分は、真の責任感を持つ人間とは、自由な人間であると考えている。

 

ここで言う自由な人間とは、やる、やらない、何を選び、何を選ばないのかを自分の意思によって決定する人間だ。

この、何を選び、何を選ばないかを自分の意志で決定できるという点が重要だと、自分は考えている。

 

つまり、決定権の無い状態であれば、決定権を持つ人間が責任を負うべきである、という原則が覆らない以上、自己を決定する権利の無い人間は、その決定に対しての責任を自分のものとはできないということだ。

これは、責任の所在が明らかになっていない場合でも、つまり自分に決定権があるのかを認識していない場合にも変わらない。

 

仮に決定権が無いことに"責任感のようなもの"を感じ、熱心に取り組んだとしても、それは真の責任感とはならず、それを為すことへの自己満足にしかならない。

また、自分が決定権を持つことができる場面であっても、その決定権を認識していない人間は、やはりここぞの場面で責任感を持つことは無いだろう。

 

前者は、会社を存続させる事が絶対になり、その価値観に決定権を委ね、会社のために部下を使い潰すブラック上司などが分かりやすいだろうか。

後者は単純に無責任な人間だ。

 

責任感を持つ人材はよく求められているが、そういった人材を集めることは非常に難しい。

自己の権利と決定権を認識している人間がそもそも少なく、また決定権を認識している人間は、その環境に魅力を感じなくなれば、自己を決定して離れていくからだ。

そのことを認識せずに人材を集めても、集まるのは"責任感のようなもの"しか持たない、自己満足が好きな人間だけだろう。

自分は前提として、人が他者を律することはあってはならないと考えている。

例えば劣悪な環境で労働させるだとか、性的な表現を止めさせるだとか、例えどれだけ下らないように感じられることでも、本人の同意無しに権利を奪うことは許されない。

 

一方で、他者を律さなければならない場面もあると考えている。

それは犯罪や迷惑行為だ。

 

しかし、この犯罪や迷惑行為とは、具体的に何を指すのか、という境界線は曖昧に捉えられがちで、しばしば自身の正義を信じて他人の権利を公然と侵害しているような場面が見られる。

 

自分は、他者を律するために必要なもの、その境界線は、「事象、原因、根拠の3つを正しく揃えた上で、適正な指図をすること」だと考えている。

勿論、その指図にも、正しい根拠が必要だ。

 

何故この3つが必要となるか、それは、正しく捉えられた事象と、それを正しく説明する原因と、事象・原因を証明する根拠、この全てを揃えた論理は、客観的に証明可能であるからだ。

これが最も複雑・高度化したものは裁判だが、他者を律することを考えるのであれば、これだけのものを揃えておく必要がある。

 

逆に言えば、これら3つを揃えずに行われる指図は、ただの迷惑行為と何ら変わりない。

当然、それに対して相手が従う理由も無いだろう。

 

また、例え3つ全て揃えたように見えたとしても、そのどれか、あるいはどれもが間違っているという可能性もある。

その間違いを証明する機会は、やはり万人に与えられて然るべきものだ。

 

自分は、大前提となるはずの、事象、原因、根拠を揃えず、適正な指図もせず、それを証明する機会も与えないような人間が、正義面で他人を律そうとしている場面をよく見かけるが、これはただの迷惑行為だと考えている。

他者を律そうとする人間は、まず客観的に否定できないだけのロジックを揃えるべきだ。

Twitterにて、海外であまりにも「差別しないでいること」に疲れたという内容のツイートが炎上しているのを見た。

このツイートを問題視した意見は、「お前が差別をしたいからそんなセリフが出てくるんだ」というものが大半だった。

 

しかし、自分はこの意見には全く賛同できない。

むしろこの意見は、海外の多様性の幅の広さを全く無視したものだと感じる。

 

海外で暮らしたことのない自分が海外を語るのはおかしな話だが、海外では、差別的な発言を絶対にしないことは、非常に難しい。

 

例えば外見で、肌の色や身体能力といった部分には、褒める形でも触れると差別と言われる場合があるかもしれない。

例えば宗教で、アルコールや、豚の味、牛の味に触れたりするのはまずいかもしれない。

 

海外では、「差別だ」と言われる可能性があるものが非常に多いのだ。

そして、SNSで繋がっている場では、何かしらのふとした一言が炎上するかもしれない。

 

全ては「かもしれない」という可能性の話だが、実際にそれで炎上している例は目につくだろうし、かといってそれら全ての可能性を潰そうと思うと、人の違い、習慣の違い、教義の違い、触れてはいけないアレコレ全てを全部網羅して意識し続けなければならないだろう。

この状況は、まさに「雁字搦め」だ。

 

そもそも、差別とは「意図的にするもの」だけを指す言葉ではない。

差別にはする側とされる側が居て、される側が差別だと言えばそれが差別だという側面も有る。

 

自分がこういったポリティカルコレクトネスの話題で違和感を覚えるのは、知っているのが常識、知らない方が悪い、という建前を振りかざして他人を攻撃する状況があることだ。

「無知はそこまで叩かれるべきものか」、と問われた時、叩いている側の人間は何を答えるのだろうか。

 

自分には、この状況が、「自分はそれを知っている、常識だと思っている、そう思っている人も多くいる」という同族意識から、無知な人間を差別しているように見える。

麻生太郎氏の、「いつまで生きているつもりだ」という発言が話題となっているが、これに便乗して記事を書く。

 

まず、自分は麻生氏の発言には肯定的な立場を取る。

 

例えば、老いて病気になってしまえば、医療費だけでとんでもない額が掛かる。

お金を使わない老人たちは、いつ何時何が起こるか分からないからお金を使わないのだという。

確かに長生きは良いことで、何かが起こったときに自力で対応できるというのも重要なことだ。

 

しかし、そうやってお金を使わず、何もせずに死ぬというのは正しいことなのだろうか。

人生の終わりを目前にして、長生きや不意の出来事に備え続けることは正しいことなのだろうか。

 

「いつ自分が駄目になるか分からないが、他人に迷惑は掛けられない」

自分は、このような心情で生き続けることは、死刑囚で在ることに等しい苦しみではないかと感じる。

無理はできない、金は使えない、本当にただ生きているだけの日々に、どれだけの幸せがあるというのだろうか。

 

それならいっそ、面倒な病気に罹ったときに、自死を簡単に選べるような、出口があっても良いのではないかと自分は思う。

自分で終わりを決められるのなら、もっと沢山お金を使って、しっかりとこの世を楽しんでから死んだほうが、淡々と無為に生き続けるよりも幸せな人生と言えるのではないだろうか。

 

もちろん、この判断が正しいと思えるような立場の人間ばかりでないということは確かだ。

重要なことは、様々な立場の人間と、その個人にあった出口が必要とされているということだ。

そして現在、老人に用意されている出口は、「長生き」ばかりであるように自分は感じる。

 

この傾向は、例えば胃ろうへの忌避感といった形で世間に広まりつつある。

しかし、自死を可能にするという言葉の外面ばかりに気を取られ、これを可能にしようという議論は進んでいないように、自分は感じている。

 

繰り返して、重要なことは、個々人にあった出口を用意することだ。

決して強要するための出口ではなく、自らを決め、幸せに生きた末に選ぶ出口として、死を用意することは、決して間違いではないと、自分は考えている。