頭が痛烈に痛む。

 アスピリンが切れたのか、頭の傷が痛烈に痛む。

 頭は包帯がぐるぐる巻かれ

 頭皮には九針の縫合傷がある。

 

 ー数時間前ー

 

 ぼくは新型コロナに罹患した患者さんの様子を見るために

 病院とは別館の感染症病棟に入った。

 32℃の気温の中を

 感染防護服を白衣の上に着こんで。

 

 患者さんは地元の刑務所の刑務官。

 年齢はまだ20代。

 非番に札幌一の歓楽街

 つまり小池百合子都知事が最も憎む、夜の街に繰り出した男性である。

 

 患者さんの状態は、落ち着いていた。

 「札幌には来ないでください」

 道知事が今でも会見で口にする言葉を無視して札幌に、それも一番行ってはいけない夜の街へと繰り出して酔いしれていたのだ。

 もし、(本物の神仏にはあり得ないことだが)天罰というものがあるのなら、神仏が与えた新型コロナが天罰なのだろう。

 

 世の中にはふたつの幸福がある。

 ひとつは助けるものと見捨てるものを選択できる「相対の幸福」。

 もうひとつは貧困にあえぐものでも悪人でも

 この世に生きるすべてのものを救う「絶対の幸福」だ。

 

 本当の神仏は罰を与えない。

 「絶対の幸福」を実践するのが信心であり

 神仏に仕える牧師と僧侶の使命だからだ。

 そして、医者もまた然りである。

 

 キャバクラで羽目を外した挙句

 新型コロナというお土産をもらったものであっても

 絶対に助ける。

 それがヒポクラテス宣誓を行って医者となったものの宿命である。

 

 よりによって刑務所の刑務官という職業の人間が

 キャバクラで羽目を外すことは許されることなのか?

 受刑者には上から目線で正しい生き方を厳しく指導している聖職者だ。

 その意味で、彼はまだ未熟だと言わざるを得ない。

 

 患者さんの容態は良好。

 回復に向かっている。

 死んでくれという心を抑えて彼を助ける。

 それが医者の使命なのだから。

 

 感染症病棟で防護服を脱ぎ捨て

 医療ごみのボックスに捨ててから病棟を出た。

 32℃の外気温では5cmの汗をかく。

 マスクなどつけたら、たちまち熱中症の恐怖に襲われる。

 

 病院の別棟から本館に戻った。

 ぼくがマスクを着けずに本館の廊下を歩いていたのが目に入った事務員がいたのだ。

 彼女はすかさず「コロナーっ!!!!」と叫んだ。

 叫ぶだけなら叫ぶがいいさ。

 

 ところが何を考えたのか

 消火器を手にしてぼくの前に立ちはだかり

 安全ピンを抜いてレバーをしっかり握った。

 真っ白な粉が泡状になってぼくを真正面から攻撃してきた。

 

 顔も白衣も泡だらけだ。

 ぼくの体から滑り落ちた泡は

 事務室前の廊下を埋め尽くした。

 これはまずい。

 

 白衣のぼくは安全靴ではない。

 NIKEのスニーカーだ。

 消火器の泡はとにかく滑る。

 消防士が消化の時に滑らないのは、安全靴を履いているからなのだ。

 

 目がくらんだぼくは、たちまち勢いに負けて転倒した。

 受け身など獲る余裕はない。

 リノリウムの床に

 思い切り後頭部をたたきつけてしまった。

 

 全館に非常ベルが鳴った。

 泡に足を取られるときに何かに捕まって倒れるのを防止しようと

 消火栓の非常ベルを押してしまったらしい。

 これはまずいことになった。

 

 本館内で働くすべての職員が集まってきてしまった。

 ハーバードの同僚たちは、何とかぼくを助けようとして果敢に泡の中に突っ込んできた。

 そして

 ぼくの二の舞になってしまった。

 

 集まってきた看護師や他の医師たちは、頭がいいもので

 泡に触れないように、ぼくらと距離を取って見守っている。

 「あっ、ハーバードホイホイだっ!」

 佐橋看護師の声だ。

 

 こんな時に何をするのが看護師の職務だ?

 少なくともバカ笑いをして

 悲惨な姿をしているぼくらを見つめているのが看護師ではないだろう。

 ナイチンゲール宣誓を忘れてしまったのだろうか。

 

 人波をかき分けて院長の天国ジジイがのぞき込んで、すぐに首を引っ込めて逃げ出す。

 それが院長のすることか。

 かわいい部下が悲惨な目に合わされているんだぞ。

 医者の風上にも置けない悪魔の所業だ。

 

 痛む頭を起こしてから上半身を起こし、何とか立とうとする。

 立てたぞ!

 と思った瞬間、また泡で滑り、後頭部を思い切り床にたたきつける。

 いつまでたっても仲間たちもその繰り返しだ。

 

 院長が戻ってきて叫んだ。

 「捕まれ!」

 勢いよくピッケルを振り下ろす。

 鋭い先端が、耳のすぐ横に突き刺さる。

 

 おいっ、殺す気か。

 自分が受取人になって、ぼくらを保険に加入させたな。

 ぼくらが死ねば受け取れる保険金で

 1人当たりの入山料が350万円のヒマラヤにでも行く気だろう。

 

 コノヤロー!

 殺されてたまるか。

 頭を振りながら

 何度も振り下ろされるピッケルをよける。

 

 救急車と消防車、そしてパトカーのサイレンが聞こえる。

 非常ベルを押したために

 火災だと思って、病院に集合したのだろう。

 もう大惨事だ。

 

 「誰か事情を話して、お帰り願え!」

 黙れ天国ジジイ!

 ぼくらを何とか救うことが何よりも先決だろう。

 集まった公務員特別職を追い返すのはそれからでいい。

 

 今必要なのは何だと思う?

 泡の中に倒れているぼくらを、いやぼくを助け出すことだろうが。

 「火災はどこですか!」

 消防士が飛び込んできた。

 

 助かる。これで助かる。

 防火服は安全靴だ。

 特殊消化液の中でも滑らずに歩けるはずだ。

 院長は事の次第を消防士に話した。

 

 帰すなよ、絶対に帰すなよ。

 そこまで思ったところで

 記憶が薄れ

 ついに失った。

 

 目が覚めたのはICUのベッドだった。

 「消防士がストレッチャーを押して泡だまりの中に入っていって、君たちを助けたんだぞ。感謝しろよ」

 頭が強烈に痛む。

 また気が遠くなっていく。

 

 どれくらいたったのだろう。

 ベッドを抜け出して事故現場に戻ると

 そこには鮮血が壁にまで飛び散っている

 ホラーな場所と化していた。

 

 事務長が安全靴を履き

 必死に鮮血をどうにかしようと

 オキシドールを廊下にぶちまけて

 モップで拭いていた。

 

 倒れた仲間の1人である韓国1号機は自慢げに言った。

 「おれは6針縫ったんだぞ、麻酔なしで。再び戦場に戻ったみたいで熱くなった」

 「いや、おれなんか7針も縫ったんだ。戦場からの負傷帰還兵の気分だ」

 がやがや縫合した針数を自慢気に語り合う仲間たち。

 

 ぼくは自分の後頭部を恐る恐る触ってみた。

 1、2、3・・・・・・・9。

 9針縫合か。

 おれなんか9針も縫合したんだぞ!

 

 仲間たちは黙ってぼくを見つめた。

 ざまあみろ。

 9針も縫合したヤツはいないだろう。

 ぼくの勝利だ!

 

 現場に血が流れた!

 院長

 教えてくれ

 どうして現場に血が流れるんだ!

 

 答えはない。

 

 勝利者はぼくだ。