上映時間が175分と知ったのは、公開日、チケットを買うまさにその瞬間だった。

確かに文庫が上下巻あったから、それなりに長くはなると思っていたが。

先に原作を読むともうすぐあの場面か、と構えて比べそうで、純粋に映像を味わえなくなりそうだと思って原作未読での感想。



以下、映画『国宝』ネタバレ含む。公開初日に観たのであやふやな部分あり。






まず吉沢亮と横浜流星という、2人の若い俳優の努力、準備、気概、そして煌めき。

それはもう画面に余す所なく映し出されていて、その意味での美しさを堪能できるのは、映画館ならではだと思う。

横浜流星は、放送中の大河ドラマ『べらぼう』にて見てとれるように体幹がしっかりしているから着物を着ての所作や舞いにブレがなく安心感がある。

どうしても最初に俊介として出てきた時に、おぉ蔦重!と思ってしまった。すぐに払拭されたけれど。

生まれた時から歌舞伎役者になる、父の名跡を継ぐ運命のこの若者。

突然に父が部屋子にすると連れて来た吉沢亮演じる喜久雄と学校に通いながらの稽古。

楽屋で鏡越しにじと、と喜久雄を見て、自転車は2人乗りして、橋の上で練習をして。

やがてぶつかる才能の差。

15歳くらいで2人が出逢い、切磋琢磨しやがて才能と血筋というお互いに無いものを痛感。
父・半二郎の代演に息子ではなく喜久雄が選ばれて初日に俊介は姿を消す。


ここまでの、おおよそ10年ないくらいの描写、正直2人の濃厚な日々が物足りなく感じた。

これは、劇中何度か感じたことで、やはり原作を読んで補填しないといけないのだろうとは思う。

うちのひとつが、喜久雄が長崎で一緒に切磋琢磨し、抗争で討たれた父の敵討ちにも同行する徳次。
彼との日々ももっともっと観たかったが、映画にする以上は仕方のない割愛なのかなと感じた。

喜久雄と徳次も、喜久雄と俊介も、気が合うとか、親友とかいう言葉では済まされない濃厚で愛憎入り混じって人間くさい関係、だとは思ったが、スクリーンではわりとさらっと流れた印象なので関係性に同調できる時間は短かった。

これは、原作既読での鑑賞を想定しているのと、3時間もある映画を観る観客ならその辺は観ながら想像してくれるだろうという信頼なのか、、


楽屋で半二郎に親父さんの敵討ちしたんやろ、と問われて喜久雄が ばってん失敗したとです、と答える、その時一番に、敵対する組員に向かっていった徳次の背中が気がかりだった。
きっと徳次はあっけなく。

最初、2人は実の兄弟か?と思ったが、背中に彫り物を入れたい喜久雄に、彫り師は立花組の跡取りには恐ろしくて入れられないと断るシーンですでに背中が鮮やかだった徳次、血の繋がりはないのだなと確信。

それでも実の息子である喜久雄よりも先に敵討ちへ走り出した徳次の一生はとても心に残った、何も知らないのに。

喜久雄の父を演じた永瀬正敏。アイパーが様になりすぎていてちょっと怯えた。

宴会に呼んだ半二郎へ一杯受けてもらえんですか、と盃を渡すシーン。

ぐいと飲み干して、つと親指で自分の飲んだ所を拭う半二郎。
1960年代はやはり、興行と切り離せない存在なんだなとしみじみ感じた。

しかしここで偶然目にした喜久雄を、渡辺謙演じる半二郎は部屋子にする訳で、運命の分岐点である。

と、ふと、渡辺謙はどこまで歌舞伎を演じるのかも気になった。もしや、と思っていて親子連獅子に納得。




そしてなんといっても吉沢亮、この人がこんなにも女形映えするとは。特に『鷺娘』の白がゾッとするほど美しい。
この世のものではないような儚さ。

あと驚いたのは声だ。
女形の声、ただ高いというだけではないあの艶やかで哀しい声を出せるなんて。

相当な重圧がのしかかるだろうこの喜久雄という役に、今の(と言っても演じたのは数年前ではあるが)全てをかけて取り組んだのだなと感じた。

しかも、大河ドラマ『青天を衝け』と同時期撮影!!
人気者ゆえ大作が集中して、心身の苦労は察して余りあるが、20代から30代への時期にこの二役を演じられたのは、今後きっと長く続くであろう彼の役者人生の大きな転機になっただろうなと想像する。


歌舞伎役者を演じる、というのはもう色々な意味で複雑だと思うので、吉沢亮と横浜流星という配役がなければまずこの実写化は成し得なかっただろう。



ただ、劇中主役の喜久雄は特に50年ほど時が流れるのだが老けメイクがいささか物足りない。

これは先に挙げた2人のみならず、高畑充希や三浦貴大もそう。もちろん白髪混じりの髪や皺などは加えられているが、どうしても動きや表情に役者自身の今の若さが出てしまっていてその点が少し気になった。

と言っても、芸能人はやはり一般人に比べ格段に実年齢より若く見えるし、周りにいる年配の役者も若く見える世界では、その年齢なりの振る舞いや声の出し方にもう少し指導が必要かなと感じる。

これはなにもこの映画のみならず、それこそ大河ドラマもそう。1人の役者がその人物の10代から場合によっては90代まで演じる作品に特に感じてしまう。歳をとったのだな、とも思う。


その点では、実年齢も80近くではあるが、田中泯はもう圧巻の演技だった。

演技、というかあれはもう人間国宝・小野川万菊を"生きて“いた。

なんだろう、あの眼差し。

どこも見ていないようで全て見渡しているような。

半二郎や喜久雄に語りかける時の、声の独特の艶というかしなというか、優しくて差し込むような話し方。

恐ろしくて美しい、人間ではない何か、になってしまっていた。
天女のようでも鬼女のようでもあった。



老けメイクの他にもう1点、どうしても気になったのは大きく言って2回描かれる喜久雄の濡れ場。

最近劇場で観た作品には一切無かったので油断していたが、わりと生々しかった。

しかも、必要性を感じなかったので(すみません)そこをインティマシーコーディネーター入れて(エンドロールにて確認済み)撮るくらいなら、もっと喜久雄と徳次や喜久雄と俊介の、関係をじっくり描いてほしかった感は否めない。

あと姿をくらます俊介の手を取る春江、この2人雨宿りシーン以外にすでにそんなに心を理解し合えてたのか!と驚いたので。


感想のほとんどはもしかしたら原作を読むと一変するかもしれない。

確かめる意味でも早く読もう。


最後に、大事なことだがなぜか比べられがちの『さらば、我が愛/覇王別姫』とは比べる必要はない。

シリーズ化されている作品の前後をなら分かるが、時代背景から何から全く違う作品を、なんであれ比較するのはどちらに関わった人にも作品自体にも失礼と思っている。

あれはあれ、これはこれ!!