マコトとシーナの生活も3ヵ月が過ぎ、シーナが出産の準備を始めた頃、マコトはひとまわり大きくなった身体を岩場に潜め、彼女が出産準備をしている間、鋭い視線で周囲を監視していた。
白み始めた青い月夜。静寂の香り。シーナの丸みを帯びた身体。
光り輝く彼女の姿を見つめるとマコトは得も言われぬ感傷に犯された。
愛しい彼女と彼女が宿した生命、過ぎ去りし幸福な時間、まもなく終わる二人の生命、永遠に続く生命の鎖。
失われる現実に落胆し、夢のごとき永遠の存在に打ち震え、自分の存在が何のためにあるのかを明確に確認した。
「マコト」
シーナの声。出あった頃の張りのある声は失われ、それでも懸命に身を翻して笑顔を作る彼女の姿。マコトの緊張は胃袋から溶け抜けた。
「どうした?」
「もうそろそろ準備が出来るから、あなたは休んで」
「ばかなことを…」
「いいのよ。全然休んでないでしょ。産んだら呼ぶし、あなたも休まないとね。私はあなたの子供しか産みたくないの」
マコトはシーナの言葉に従い、一度周囲を見渡してから彼女の傍へ向かった。ふたコブ型の岩、水藻のカーテン、緩やかな流れ。
二人だけの最後の時をお互いに何も語らず、寄り添って過した。思い出すのは出会いの日、この場所で過した時間、語り合った現実、実現しなかった夢。
彼女の息使い。上空に見える朝靄。マコトは緩んだ眉間に力を込めて彼女を見やった。
「そろそろよ」
シーナの呼吸が荒くなり、膨らんでいた腹が痙攣を起こした。
「大丈夫か?」
マコトはそんな稚拙な言葉しか思いつかず、その動揺をなだめるように大きな目を緩めて笑ったシーナの顔。マコトは青白く輝く満月に魅入られたかの如く、全身の細胞の震えを感じ、暖かく包まれるように凍りついた。
「がんばれ」
うわごとのように漏れる呟き。力む四肢。何のものとも判らない、ただ荘厳な音楽が大音響で流れ出る様に彼女の身体から白く輝く卵が産みだされた。
彼女の涙。
産み落とされる卵を眺めながら、マコトは同様に何かが流れ出し、同時に何かが体内に染み渡っていくのを感じた。
身体が熱を帯びていくのを感じたマコトは、まもなく産み終えると言う彼女の視線を受けとめて、彼女に頬を寄せてくちづけをし、今まさに受精を行なおうとした瞬間、背後に異様な殺気を感じた。
「ちょっと待てよ」
下流でうすら笑いを浮かべながら泳いでいる小さな男。皺枯れた皮膚、無数の傷。鼻に通った白い糸。うつろに光る濁った瞳。
マコトはその異様な姿に寒気を覚え、彼女と卵を川藻で隠し、射精しかかった身体を一気に戦闘体制へと移行させた。
「ここを何処だと思ってるんだ、おい」
「しらねえよ」
男はヘラヘラと薄気味悪い笑みをこぼしながらマコトに近づいた。
マコトは思った。この状況で現れることの危険さ、明らかに自分より大きい相手に対する態度があまりにも不自然で、不気味だと。だからこそ、本来であれば声を出す間も与えずに攻撃するところを、敢えて躊躇した。
「今、大事な時なんだ。用が無いなら、さっさと行ってくれないか」
マコトの穏やかな声に男はまるで耳を貸さず、遮るように、
「こんなにでかいテリトリーを抱えているくせに、えらくお上品じゃねえか」
と声を荒げた男は、まるで何かに導かれるようにマコトに近寄った。
「悪いことは言わないから、行くんだ」
「何を偉そうに。怖いなら怖いって言えよ。何なら俺が射精してやろうか?」
「冗談はよせよ」
「冗談なんかじゃないよ、俺みたいなハンパ者はこんなチャンスでもなきゃあ、あんな美人の卵にブッかけられないからなぁ」
まっすぐマコトに近寄っていた男は、ふらつきながらシーナのいる岩の方へ転舵した。マコトはすばやく男の鼻筋へ廻りこみ、一発鼻突きをかまして、男を後退させた。
「おお。てめえ強いじゃねえか。俺の知る限りでは一番だぜ」
「判ったんなら、行けよ。チビ」
「ぬかしてないで、来いよ。俺達の流儀通りな」
マコトは挑発に乗りたくはなかった。こんな奴は一撃で外へはじき出せるはずだった。何かある、と言うことは判っていた。
一瞥した時のシーナの不安気な顔。もう卵達に時間がないことは明らかだった。
マコトは決意した。一度シーナの方に振りかえり、流れに任せて後退し、男の方へと近づき、尾鰭が男に触れそうになった刹那、反り返るように急上昇し、男の上方から一撃を食らわした。
「ぐへっ」
男は川底に叩きつけられ、しかし、まるで死霊のように浮き上がり、そこは躊躇せずに男の側面に張り付いたマコトは胸びれに噛みついて言った。
「これで最後だな。このポジションになったらお終いだ。観念しな」
「どっちが…」
死臭のするような瞳の光。その光は男の尾鰭でも光っていた。
「てめえ」
マコトは激しくその体勢を解こうともがき、その瞬間、尾鰭の光がマコトの身体を貫き、圧倒的な水圧と解ける様な視界がマコトを襲った。
短い破裂音。
たち昇る水しぶき。
男と身体を合わせたまま、息の出来ない空気の世界へと身体が浮いた。
マコトは叫んだ、「シーナ」と。
そうして乾いた岩に叩きつけられ意識を失った。