小池真理子著
今日は冬至。神奈川の日の出は6時40分過ぎ。
朝ご飯にカボチャの煮物を食べたから、あとはゆず湯かな。
最近本をじっくり読む時間がなかったけれど(Netflix観たりやパン作りはできるのに?)この本には惹きつけられた。
小池真理子さんの著書は読んだことがなかったけれど、朝日新聞の日曜版に連載されていたエッセイ「月夜の森の梟」があまりに衝撃的で痛ましくて…そんなときにこの本を書いていたのかと思うと、是非にでも読みたくて・・・
 
10歳の姪に会った時から彼女に恋い焦がれてあらぬ妄想までしてしまう男がいた。
その姪は豊かに勝気に美しく育つのだけれど、両親をその叔父に殺害されてしまう。
事件は迷宮入りとなり、その叔父は彼女を気遣う様子で付かず離れず暮らしていく・・・
という気持ちの悪い展開。
ここに彼女の家に家政婦として通っていた中年女性とその家族が奥行きを作る。
家政婦家族は孤児となった彼女の温かい居場所になるが、全てが思い通りになるわけではない。
 
叔父の少女へ対する恋慕、長じて彼女が結婚する相手の彼女へ対する執着の形、彼女が心を寄せる家政婦家族の長男の気持ちの向かう方向・・・
異性を好きになる、人生を賭けたいと思う、その心情の根幹にあるものはみんな同じとは限らない。
人に引き付けられる要素はみんな同じではない。
お金持ちで教養があることに価値を見出す人も、容姿に惹かれる人も、性の対象としてして捉える人も、波風の立たない人生の伴侶としての素養を求める人も。
辛いものが好きな人も甘いものが好きな人もいるわけで、甘いから美味しいと他者に自分の好みを押し付けたりその定規で測ったりすることはできない。
と考えると、私はどうだろう。
私の好悪の基準は一般とは違っているかもしれないと、揺さぶられる。一般ってなに??
殺人を犯してしまう叔父は、彼女の存在とそれに向かう自分の心だけが大切であって、あとはどうでもよかったのだ。
その辺の熱くなる度合が、人の道を踏み外さなければ良かったわけで。
小児性愛の愛好家というものが存在する。
愛の対象となる子供やその環境への悪影響がなければ、ひっそりと思っているだけなら許されるのだろうか。
許される…誰に?
ここで登場するのが神なのかもしれない。
 
愛の問題は奇怪。
夫の死を間近にして、この作家はこんなにも深い森に入りこんでいたのかと驚嘆する。