読書好きな友人から借りた2冊。

共に明治期の庶民というか、貧しく暮らした人々の話。

『あい』の作家、高田郁さんはあの澪つくし料理帖シリーズを書いたひと。

ストーリーテラーなのでしょう。

関夫妻の幼少期から70代、80代までの長い長い足跡を一冊にまとめているので、どうしても年代記的になってしまう。

その生き方に感銘を受ける方もいるのでしょうが、私はどうしても女性の在り方に理不尽さを感じてしまう。

封建制を引きずり儒教の観念にとらわれていた時代だから、しかたありません。

でも、ひとりの女性が倹しい生活に励みながら生涯12人も子供を産み、6人を失うとは!

その中の5人は成人することもできなかったとは・・・

彼女の悲しみを夫はどう受け止めていたのかしら。

彼女は、尊敬できる人と一緒に居られて、支えることが出来て幸せだった・・・と私は片付けられない。

夫は、もう少し経済的に楽な生活をしようと思えばできたのに、自分の理想のために家族を犠牲にしている…としか私は思えない。

と、令和のぬるま湯に浸かった私は関先生が理解できなかった。

 

『邂逅の森』も明治期・・・でも物語は徐々に大正に移っていく。

秋田県北秋田郡の寒村で、小作と狩猟を生業とする家に生まれた富治さん。

これがオスの本能と人としての矜持を持ったかっこいいマタギなんだわ。

女性問題を起こし村から逃げ出し、銅山の鉱夫として働く中で、人としてますます強く優しくなり、

最終的に住み着いた村で再びマタギとして男衆を率いるようになり・・・

村で悪評だらけの元娼妓と所帯を持ち落ち着いて暮らすようになり一人娘を嫁に出す。

ここで終わるのかと思ったら、なんとこのあと山の主のような大熊と対決する。

これが、自然が支配する山々とそこから恩恵を受けていたマタギの終焉を意味するような結果となる。

富治さんも、そのほかの男たちにも血肉があって本のなかから匂ってきそうだった。

そして登場する女性たちの、強さ。

形は家父長制の男尊女卑だけど、きちんと考えていて、欲望も肉体も自分で自分のために使っている。

従属するにしても意味がある。『あい』のあいさんもそうだったのかもしれないけど、ここが作家の違いだわね。

マタギも、銅山の鉱夫も、富山の薬売りも、娼妓も、いまはもうほとんどいない。

明治から大正、昭和と、日本は激変していったから、きっといろんな生業が生まれては廃れていったのだ。

と、令和のぬるま湯に浸かった私は雪山の冷たさ厳しさを空想していた。

 

あ、コロナ禍・・・これが私たちに突き付けられた時代の災禍なのだわ。