先日、自分のブラックについて簡単に書いてみましたが、
その際にいくつか思ったことがあるので書いてみます。
ひとつは、これは当然の反応ではありますが、
自分のブラックを明かすと、「私はこうだったんです」「私も似たようなことがあって」「私の場合は、違うけどこうで」というような話をしてくれる人が増えます。
その話からも得るもの、感じることは色々ありますが、
つくづく思うのは、
人と深くつながろうと思ったら、まずは自己開示
なんだなということです。
以前コーチングの入門講座を受けた時に、
「どういう人を信頼できると感じますか?」という質問があり、
参加者が考えをシェアし合ったのですが、
私はその時「自分のことを話してくれる人」と答えたのを思い出しました。
人の話ばかりを聞こうとして、自分の話は一切伏せたまま、ってやっぱり何だか得体が知れないですよね。
今後も、親しくなりたいと思う人がいたら、やはり自分から自己開示するのがいいんだなと思いました。
それでうまく親しくなれるか、トラブルにならないか、色々考えたりはしますが、相手の一歩目を待っているより、自分から動くのもいいかな、と思いました。
(自己開示のやり方や、相手への負担にならないように、というのはまた難しいところではありますが)
さて、そして人の話を聞いて思うのは、
・ブラックというのは、人と比較することではない
・ブラックは、「環境がどうだったか」「どういう目に遭ったのか」というよりは、その時の本人の心情がどうだったかという点
・ブラックとは、本当に人それぞれである
ということです。
ブラックとは、「環境、状況、心情、身体」などが大変だったり辛かったり苦しかったりという状況を指すのだと思いますが、
同じ状況に陥っても、人が変われば感じることは変わります。
もちろん、いじめに遭えば誰だって、情けなくて辛くて苦しくて気力を失って…とある程度は同じだと思います。
だけど、それが「どのくらいか」というのは、その人にしかわからないのです。
それが些細なことなのか、重大なことなのか。
それは本人にしかわかりえません。
そして、これが悲しくも重要なことではありますが、「それを完全に人と共有する方法」はありません。
だからこそ、「この程度なのに」「こんな些細なことで」と思う必要もないし、
「こんなに大変なのに誰もわかってくれない」と思うことでもないのだろうと思いました。
だって、誰にもわからないのです。
(伝えること、共有しようとすること、わかってもらおうとすること、は可能ですが)
感情は、反応は、ただ、そうあるというだけのことなんだろうな、と。
あるものを、否定する必要もないし、変える必要もない。
ただ、そうである、そうであった、というだけです。
まあ、渦中にいる時はそういう視点に立つことは難しいというのも良くわかっているのですけどね。
ただ、それを乗り越えて今ここにいるということ、それは内容や程度がどうであれみんな誇っていいことなのかもと思いました。
今渦中にいる場合、見えないものもあります。
見えるものもあるでしょう。
でもやっぱり距離の取り方は難しい。
今苦しい局面を頑張って生きている、それだけでもう十分なのかな、と思ったりします。
そして、ブラックは人と比較することではないということを実感すれば、
「事実」と「妄想(悪い想像)」「不安」の切り分けとか、「ストーリーを作らない」とか「自分」のラインの引き方とかもわかってくるのかもと思います。
そんなことをつらつらと思ったのでした。