blues harmonicaのブログ

blues harmonicaのブログ

ハーモニカが好きで吹いています。全然ヘタですが。
これから日々気が付いた事など書いて行こうと思っています、、
宜しくお願い致します。。。。。

umino_7882@yahoo.co.jp

皆さん、ようこそお越し下さいました。このblogは私が綴るある意味自分の人生の告白blogです。勿論、皆さんに取っても有益な情報とかも書いて居ますが。日記の様なblogですので。宜しく御願い致しますね.....。
Amebaでブログを始めよう!

 

 

 

 

最近、思う事がある。人に付いてだ。私が中学の頃に友人とヤマハのピアノ売り場に行った事があった。その時に私は電子オルガンが置いてあったので弾いて見た。私はピアノを少しだけ弾けた。だから。オルガンでブルース進行のアドリブを弾いたのだ。足で3連のベースラインをペダルを踏んで弾き、鍵盤でブルーノートスケールのアドリブを弾いた。すると店員が少し感心して見て居たのだった。一緒に行った友人が、「俺も弾けるぞ!!」と突然怒り出し、そいつも弾いたが、めちゃくちゃだった。私は20分間ぐらい弾いて居たが、その友人の顔は見る見る怒りの表情に変わって行った。そして、またある時に私の家に遊びに来て居て、私のガットギターを弾いて言った、「ダウンタウン・ブギウギ・バンドの「スモーキング・ブギ」はこう弾くんだ!!」しかしデタラメだった。私はフリードウッドマック・ブルースバンドが演奏して居た「ダスト・マイ・ブルーム」を爪弾いて見た。そいつの顔は見る見る上気し私を睨み付けた。要するに気に喰わ無いのだ。何で人と自分を比べる。そして何で自分は何でも正しいと思う。そいつはそれ以来私の処には来なく成った。

 

 

 

 

高校の時だ、私を幼稚だと言ってバカにして居た男が居た。私がカセットテープにお気に入りのブルース・ミュージシャンの音源を録音して表紙をそのミュージシャンの写真を雑誌から切り取り、貼って居たのだ。するとそいつは「〇〇は幼稚だな。ガキか!」と喰って掛かって来た。だから私は一言言ってやった。「ああ、お前よりはマシだよ。お前はハードロックの曲のイントロ集だと言ってテープにイントロだけ入れて順位を付けて居るだろう。それよりはなぁ。」すると黙って居る。そして其奴とも渋谷の道玄坂にあったヤマハの楽器売り場で。シンセサイザーが置いてあったので弾いて見ると、結構よく弾けたので我ながら「シンセサイザーもいいなぁ」と思って弾いて居たらそれを見て「ハ、ハ、ハ、ハ、ハ!!」と笑うのだ。そして「ケッ!!俺の方が上手いぞ!!」と言って弾くが上手くは弾け無い。そうしたら鬼の形相で睨み付けて来る。

 

 

 

 

要するに嫉妬なのだ。相手を認め様とは仕無いのだ。その人間が楽しんで居るならば。何をしても人の勝手なのだと思うが....。病院に入院した時だ。レクリエーション室にギターが置いてあった。だから弾いて見ようと手に取ったら、知り合った筑波大の大学院に行った男がこう言った。「ヘ〜〜あんたがギターなんか弾けるの?」私は構わずにギターソロを弾いた、すると「ケッ!!バカヤロー!弾けるじゃ無いか!!」と怒鳴るのだ。その男は自分は大学院まで行った男で、私みたいなバカでは無いと言って居た、そして口癖は「私は解るけど〇〇さんはバカだから解ら無いだろう」と言うのが口癖だった。自分は頭がいいと思い込んで居るバカだった。

 

高校で私をバカにして見限って居た奴は、ある日、母親に死なれた。私は葬式に出て線香を挙げた。そいつは私を見て「フン」と言った具合だったが、彼の父親は私に「ご丁寧に来て頂いて済みません」と言った。そして其奴は日大の補欠に引っ掛かって居たから親父が大金を積んで入学して大学生に成った。しかし友達が出来なかった。そいつは私の処に来て言った。「〇〇、僕の友達になってくれ」私は言った。「俺がお前の友達に成るかどうか良く自分の胸に聞いて見ろ」すると項垂れて帰って行った。それから、暫く経って、電話が掛かって来て「頼むから友達に成ってくれ」と哀願した。私は「大学のゼミで友人は出来るだろう!」と言って続けて言った。「お前は俺をバカにして居たのだろう。そんな奴と友人に慣れると思うかバカ野郎!」と言ったら、電話口で泣いて居たが私は電話を切った。

 

 

 

 

筑波大の大学院での男とは少しだけメールのやり取りをした。そいつは自分が思って居た以上に私が物事を知って居ると少しは思ったらしく、押井守の「スカイ・クロラ」と言うアニメを一緒に観に行か無いかと言って来たが、私は認知症の母の面倒を見なければなら無いからと断った。私はその男にロックとブルースを録音したカセットテープと映画を録画したテープ。要ら無く成ったマカロニ・ウエスタンの映画の貴重なビデオ・ソフトなどを送ってやった。すると暫く経ってまた、メールが来て、礼は言わなく皮肉を言うのだ。「よくもまあ、色々持って居ますね、私は全く知ら無い映画ですよ。よくもねぇ〜〜」私は「ああ、この人間は人の善意の行為も自分のプライドに触るのか?」と思った。普通なら色々知ら無い映画やら音楽が貰えて聴けて観れて、良かったと思う処だがと思ったので。それ以来、もう何も挙げなかった。そしたら、メールが来て、お返しを送ったからと言うのだ。私は慌てて言った「そんな事は考えなくても良いですよ」でも送ったからと言う。そして送られて来たものは彼の姉が作った焼き物のオブジェだった。そして言うのだ「どうでしたか?あれは6千円で売って居るものです。どうです芸術的でしょう」だから言った「良いですね。お姉さんに有難うと言って下さい」

 

そして黙って居たらそれからまたメールが来た。それにはこう書いてあった「私をライブハウスなんて訳が分から無い処に連れて行か無いで下さい!!」私は笑って仕舞った。私はもうとう言われるまでも無く、彼をライブとかに連れて行く気は無かった。連れて行っても理解が出来無いだろうし。そんな義理も無い。お勉強しか解ら無い御仁に薦める訳が無い。彼は言った「最近。後輩の女の子からメールが届く。彼女は私が入れなかった研究所に入って今教授の元で研究をして居る。この私がやりたかった事だ。私こそ研究室に残るべき人間だ。気に喰わない。彼女からの連絡が来なくするにはどうしたらいいと思いますか?」私は一言言った。「相手にしなければいいじゃ無い、嫌ならば...。」そしたら彼から、また連絡が来て「スカイ・クロラ、見て来たけど私は原作本の方が数倍良かった」そう言うので私は「あのアニメは原作よりは単純化されて居るけど、その代わり押井監督の押井イズムが垣間見られると思うよ。元に成って居る原作がいいと思うのは勝手だが。アニメ作品の芸術性も評価するべきだよ。大体が原作とアニメは違うものだ。」と言った。そうしたらそれからはメールが来なくなった。彼は自分が頭がいい事を子供の様に褒めて貰いたかったのだ。そして、彼はまた発病して病院に入院した。

 

 

 

 

訪問看護師の子が此間だ私に聞いて来た。「〇〇さんは大学行ったの?」だから私は「一応は行ったけど何で?」と聞いた。すると、「〇〇さんはIQ高いでしょう?」と聞く。何故かと言ったら、その子は私のこのblogのアドレスを私からうまく聞き出して居るから、たまに見て居るらしい。私がblogで長文を書いて居たり、音楽以外の事、映画やら思想などに付いても語って居る事を見て居てそう言うのだ。そして言う。「私はIQ低いんですよ。」はっきり言ってIQは関係無いはずだ。そしてこう言う皮肉を言う「何見て書いて居るのよ一体!!」私は「それは書物だとかも参照して居ますよ?」そういうと「へ〜〜本の丸写しで描いてるんだ(笑)」そしてこう言った。「統合失調症でしょ?」私はその子に最近話題になって居る「マルクス・ガブリエル」と言う哲学者が居ると教えた。私はこの哲学者の事は機会があるごとに。ありとあらゆる人に知らせて居るので。

 

その子は言った「マルクス?何ですって、難しくて覚えられ無い」だから言った「ガブリエル。大天使ガブリエルって居るでしょう。ミカエルと並ぶ大天使。だからそう思って覚えればいいんだよ。」そう言ったら、不貞腐れて居る。そして「マルクスは経済学者で居たわよね」と言った。だからガブリエルの本を見せた。そうしたら「この本1ぺージ読むのに1日掛かる。注訳付けて読ま無いといけ無い・・・。」と言った。そして何だかジェラシーを感じて居るようだった。まあ、人は色々だ。人に貴賎は無い。どんな人も世の中に生まれ落ちたと言う事は必然なのだ。偶然もある意味必然で起こる事なのです。映画監督の河瀬直美さんは言う。樹木希林さん主演の映画「あん」を撮って居たら。希林さんが私に、「木から蒸気が出て居る。この木に私が寄り添って一言言うシーンを撮りたい。」と言った。「そして彼女は、木に寄り添いながら「人は生まれて来て何者かに馴れなくてもいい。ただ生きて居るだけでいいんだよ。生きる価値はあるんだ」そうアドリブで言った。」と言って居た。川瀬監督は「此れは木から蒸気が出て居たと言う偶然で撮れた芝居では無い。樹木希林と言う役者の必然なのです」と言って居た。そう必然だ。私は頭が悪い。だが、そのせいで、物事に深く惹かれる。何でも追求して研究して見たくなる。人間、蓋をして仕舞ったらお仕舞いだ。その事は、自分が知ろうした事は必然なのだ。切っ掛けは偶然に知った事かも知れ無い。だがそれは必然的にそこに立ち現れて来た事象なのだ。

 

 

 

 

 

 

つまり、「偶然的な必然」。理由は簡単だ。偶然かの様に見える必然は、それほど個人的で秘密めいて居るからこそ価値のあるものなのだ。共有された瞬間に、それは「ただの物語」へと形を変えて仕舞う。生きる中で起きる偶然。何なら、世界の殆んどは偶然が構成して居るかの様にも見える。ニュートンの目の前でりんごが落ちなかったら?松本と浜田が同じ学校じゃなかったら?父親と母親が出会わなかったら?こうして、偶然なのか必然なのか判断が出来なく成った事象ばかりがつのり。人生と世界を休みなく構築し続ける。多分、このblogに書いて居る事も一つの偶然であり、必然なのであろう。インターネットの広大な海において、たった一つの記事を最後まで描き通す確率なんて、昔ながらの電卓ではお手上げの確率だろう。そう言う、「偶然のような必然」、もしくは「偶然的必然のような偶然」は今日も世界をひっそりと彩る。そう言う個人的な彩りに目を向けて欲しい。それは「偶然的必然のような偶然」なんだろう。あなたの中にある物語を存在させる為の偶然。

 

この間、自分の娘を虐待して殺した父親の裁判が有った。この父親は捕まった時だけに限らず何時も、ヘラヘラ笑って居た。此奴は自分が会社で評価され無い。人とうまく行か無い自分の憂さを全て娘にぶつけた。娘をリンチし食事も与え無い事で晴らして居たのだ。裁判の判決が読み上げられる前は私傷にも涙を流して死んだ子供に謝ったと言うが、私は取り繕った嘘だと思って居た。自分の刑が重くなると嫌だからだ。「私は娘を殴って居無い。」「あれは娘が嘘を書いた。」自分が嘘八百を言って居るのだ。そして判決は、身勝手で悪質千万だ。拠って刑は一番重い16年を求刑された。すると彼奴は弁護士に「16年は重いのか?」と聞いて居ると言う。司法を舐め切って居る。彼奴は刑務所を舐めて居るだろう。刑務所とはどんな処か、食事はご飯が少しに味が付いて無い、きな粉が掛けてあるだけ。あとは適量の醤油をお湯で薄めた汁だけなのだ。そして独房に冷暖房は無く。煎餅布団と薄いモーフだけがある。ある囚人が刑期を勤め終えたら、70歳を超えて居たそうだ。彼は自分の欲望だけの為に人を殺したが模範囚として過ごし、シャバに出て木工の職人として生きて、残り少ない人生を再起して生きて行こうとした矢先に脳卒中で死んだそうだ。人生甘く見て、何にも学びずに生きて来た男の哀れな最後だ。あの父親も刑期が終わって出てくればもう70歳を超えて居るはずだ。世の中をいい加減に甘く見て生きて居る人間には偶然も必然になら無い。本人が必然に仕無いのだ。世の中には色んな為になる事がわんさかある。勉強をしようとしても、知識欲があってもとてもではないが全部の知識は捉えられ無い。私は良く人に言うのだが。人生は自分に幾ら投資を掛けたかで、その後の人生は決まって仕舞う。私は親に大学と言う投資を掛けて貰った。私は喜んでその投資を受けた。しかし人は皆んな投資を受けられるとは限ら無い。何故なら大学と言う投資には1千万から1千5百万と言う金が掛かるからだ。だから金が無い家では投資を掛けられ無い。貧しい家庭の子は高校を出て就職するか、中学か高校を卒業したら職業訓練学校つまり専門学校に通う事になる。

 

 

 

 

しかし、専門学校も自分への投資なのだ。恥じる事は無い。何も大学に行くだけが人生では無い。ある電気製品の修理人が居る。彼は、子供の頃から機械をいじるのが好きで、小学校の時に、親戚の家にあった古い真空管ラジオに興味を示し。ラジオの設計の専門誌を買った。彼はその専門誌の図面を研究し、自分ならもっとラジオの周波数を広範囲に作れるとか色々な事をその図面の設計に書き加えたと言う。彼は新聞配達のアルバイトをして秋葉原などで部品を買って居た。そうして興味を持ち中学になるとラジオを完成させて作り天才電気少年と呼ばれる様に成った。近所のおばさんがある時に壊れたミシンを「あんたに見て貰いたい」と持って来た、彼は図面を引き。故障の原因を突き止めて部品を秋葉原で買って来て直した。直ったミシンを受け取ったおばさんの顔は生涯忘れ無いと言って居る。それ以来壊れたカラーテレビなども預かって修理をした。

 

彼は高校生になろうとして居た、ところが彼は高校を1日で退学して仕舞ったのだ。そして彼は電気の職業専門学校に通って電気の知識を蓄えた。彼は3年間みっちり勉強をすると。大手の家電メーカーに入社して、電気店に配属されて修理人として生きる道を選んだ。彼はこれで壊れた家電を修理して人に喜んで貰う事が出来ると喜んだが、時代は高度成長期、使い捨ての時代だ、「故障の家電を直してくれと言われても、直すな。見るだけ見て直りませんと言え」と社長から言われた。彼は言う、「電気屋が直ら無いと言ったら、持ち主は諦めるしか無いですよ」そして新しい家電を買わせた、彼はそんな大手の家電メーカーが嫌に成った。だから、その大手の家電メーカーの電気店を退社し「今井電気サービス」と言う電気店を開いた。しかし大手の家電会社の系列では無い「今井電気サービス」には部品も家電メーカーからは降ろしては貰え無い日々が続いた、修理が出来なければ、直したくても直せ無いのだ。貯めて居た持ち金は見る見る底を付いて行く。

 

時代はバブルが弾けて、小売りの小さな家電は潰れて行き家電量販店へと移行し出した。彼は店を閉めて、田舎に帰り細々と「今井電子・テレビサービス店」を開いた。すると何と彼の腕を知った、オーディオ愛好家やらからの修理の依頼が続々届く様に成った。彼はどんな依頼も断らなかった。修理こそ天明で命だったのだ。彼の頭の中には、長年培った修理の蓄積が宿って居る。彼の評判は信頼して直して貰った人たちから口コミで大きく広がり、今では日本はもとより海外からも修理の依頼が絶え無いと言う。修理まで半年待ちだと言う人も居る程だ。時代は昔の物を大切に使う時代に成って居た。彼は言う。「どんな事でもそれに情熱を掛けてそればっかり追求して行ったら。何時かはそれは自分のモノになります」そう彼は偶然を必然に変えたのだ、彼の名は今井和美と言う。

 

 

 

 

 

 

 

人は良く、ホワイトカラーだけを良しとし皆んながそれに成ろうとする。ブルーカラーはダメだと思って居る。今話した今井さんはブルーカラーです。でも、自分の深念を曲げずに、働いて人に喜ばれて居る。大学卒の一部の本当のエリートを除いた、サラリーマン達よりも世の中に貢献して居る。そして彼はホワイトカラーの会社の平社員、何かよりも遙かにお金を稼いで居る。私は若い頃に高校の担任から「〇〇、お前なら東京電機大学だったら推薦が取れるぞ」と言われた事が有った。私は今なら間違い無く「東京電機大学」に入学して居ただろう。ただ40年前の当時は電気大学と言うと何か野暮ったく、まだ出来たばかりの新設校だし、「電気関係で生きるのはなぁ....。」と思って仕舞ったのだ。私は美大に行きたかった。頭があれば東京藝術大學に行きたかった。しかし藝大は私の頭では行け無い。私は自分の得意の絵の分野に関係する仕事で暮らして行きたかったのです。しかし私は画伯に成ろうとは思って居なかった。当時、出て来て一斉を風靡して居たアニメーション業界か映画業界で働きたかった。アニメーション映画の監督に憧れて居たのだ。

 

しかし何遍も言って居るが親は猛反対をした。仕方が無いので、一流大学を受けた。しかし受験に失敗した。それで滑り留めに受けた拓殖大学に入った。この間先程、話した訪問看護師の女の子に、自分は「大学で第2外国語でインドネシア語を先行したが、今ではドイツ語を学んで居れば良かったと思って居る。まあ、普通はドイツ語かフランス語だからね」と言ったら、「そうよねぇ、、はは、、」と笑って居る。そして私がマルクス・ガブリエルがYouTubeでドイツ語で話して居る画像をパソコンで見て居たら、「言葉なんて解るの?何だぁ!!字幕付きじゃない!」と言って「分かって居るふりをして居ないでよ!!」と言うのだ。動画に字幕が付いて居るのは普通だろうに。私が「拓殖大学は評判が悪いけどアジアに開かれて居る大学で国際学部も有り、留学生も結構来て居るよ」と言うと鼻でせせら笑うのだ。そして「ほらほら大きな声で興奮して言うから」とまた人を馬鹿に仕出す。自分は何々だと言いたく成った。彼女に取って偶然は必然では無いのだ。偶然の侭だ。彼女は自分はIQ が低いから、と言うが、今の世の中、IQで人を図る時代では無い。そう言った事を言う事自体、偶然で生きて居る証拠だ。世の中の流れを全く知らないのです。

 

ーー今日の夕食ですーー

 

 

 

まあ、どうしても厄介な人の事は悪く言いたく成る。自分らが如何に愚かなのかが解って居無い。大体がその人にマルクス・ガブリエルの本を見せたら、表紙に載って居る写真を見て「なんだぁ〜。今時じゃ無いじゃ無い!」と言うのですよ。誰がイケメンの20代の男の格好をする!!彼はドイツの哲学者で40歳のボン大学の教授だ!!私は今まで書いて来たのは、ホワイトカラーばかりでなくブルーカラーも大切だと言いたいのだ。例えば美容師たち。彼らはブルーカラーのお手本見たいな職業だ。でも彼らは自分に誇りを持って仕事をして居る。私が前にblog記事で紹介した。高木啄也さん。彼はまだ30代の半ばだが、彼のカットは凄く斬新で格好が良い。そして彼は、客の心理状態も見て居て髪を切る。例えば前髪が長くて目が隠れて居る人に「あなたは目が大きのだから隠すよりも出した方が良いよ。自信が無いのかな...。もし、良かったら俺にカットを任せてくれる?」と言うのだ。客は高木のカットは有名だし、彼にカットして貰えれば間違い無く、カッコイイ髪型にして貰えるのだから。安心して任すのだ。結果、高木の言って居た通り、前髪を少しウエイブさせてカットした活かしたカッコイイ髪型に変えてくれるのだ。私は彼の仕事ぶりを見て居て気が付いた事が有る。それは、彼は客の為を思って奉仕の精神で仕事をして居ると言う事だ。そして、だからこそ技術を何時も磨いて居る。

 

 

はじめまして!高木琢也です🙋‍♂

 

高木琢也 OCEAN TOKYOについて語る🙋‍♂

 

 

HOTPEPPER Beauty AWARD 2019 第1話【ヘアサロン】

 

高木琢也×三科光平 2018年流行る髪型はウイングウルフ!!

 

 

 

今年も高木さんは全国でナンバーワンの美容師に選ばれた。そんな彼も高校受験で失敗し。大学受験でも失敗し、劣等感の塊のダメ人間だった。しかし彼は母親が美容師をして居た為に美容学校に通う様に成った。そこで彼は自分はフェイク野郎じゃ無い、一流の美容師に成ろうと心に決めた。彼を知る客は、彼がまだ駆け出しで頭しか洗わせて貰えて居無い状態の時から、「自分は日本一の一流の美容師に成るんだ」と言って居たと言う。私は思うのです。ホワイトカラーと言っても、それのほんの一握りの人間たち、要するにエリートしか必要とされて居無い。その他のホワイトカラーは必要が無い人間たちなのですよ。最近ではそのうちAIにとって変わられるだろうと言われても居る。大学を出たからって全ての人が上手く行く訳では無い。大体が大学時代に遊んで成績を取らなかった人は。高卒で一生懸命手に職を身に付けて技術を学んで、懸命に生きて居る人たちに比べたらクズ同然です。そう言う人たちが高卒者やら専門学校生をバカにするのですよ。私はギャンブルは嫌いだ。酒も飲ま無いし、タバコも吸わ無い。女も買わ無い。大体が大卒だと威張る事は仕無い。だから私をバカにしたければすれば良い。自分の至らなさと知識の無さを気にして居無いのなら何時まででもやって居なさい。

 

私は一部の人に言いたい事がある。君たちは自分より年上のものに対する口の聞き方も解って居無いじゃ無いか?あんたたちは専門職なんだから、医療の現場で身を持って仕事をして居る自負は無いのですか?患者は馬鹿では無いのだから、それに言いたい。自分と人を比べるな。私が病状が酷かった時期の事で私を推し量って考えるな。偶然と思った事はある意味必然なのですよ、、私は思う。だから運命と言う物はあるのだと。そして運命を見出せるか否かが問題なのです。問題は運命を感じて居るか否かです。人生で深く意味のある事、出来事により深い意味があると思えた時、自分自身に近づいて居るのです。運命は必然を意味しない。運命は自由を意味するのです。自分が自由になった時、初めて運命を見出せます。考えて下さい。

 

自分への投資と言うのは自分でも出来るのですよ。例えば働いたらその労働での対価を廻せる分だけ自分への投資とすれば良い、自分で働きそれに付いての暮らしぶりは、自分への対価で出来ます。当たり前ですけど。私はそうやって、自分に投資した。良くそう言う事が出来ない人が居る。しかし此れは無駄金では無い。自分への投資に使うお金なのだから。買い物を考えて見よう。欲しい物がある。自分に取って役に立つ物だ。此れもある人が言って居たが、私がアニメの同人誌を見せて「世の中にはこう言う物もあるよ。」と見せたら、「値段は幾らするのか」と聞いたので「8百円ぐらいですよ」と言ったら、「8百円なんて高い!!買えない!!」と言うのですよ。まあ、お子さんが居るから、生活費で無駄な出費を押さ得て居るのは解るが...。その人は素人のアニメオタクの研究家が精魂込めて作った同人誌の価値がまるで解って居ないのだ。そう言っては興味を示さずに一体何に興味を示して購入すると言うのだ。私は何も同人誌を買えとは言って居ない。ただそうやって自分への投資を拒んで何に成る。私は自分が此れは必要だなと思ったものは決まって購入する事にして居る。良く流行の断捨離に共鳴して物を持たない様に暮らそうと考えて居る人が居る。ミニマムな暮らしだ。最近はトレンドで流行って居るからだ。

 

私は映画はBlu-rayやらDVDを購入するし、BS/CS・地デジを週単位でチェックしBlu-ray・レコーダーのHDDに気に入った番組を録画して撮り溜める。そして厳選して残して於きたい映像をBlu-rayに録画する。私は映像は頻繁に鑑賞する方です。テレビは情報の宝庫だ。自分が知らない事を番組で教えてくれる。まさにミニマムな自分への投資なのですよ。しかし最近の若者はそれをしないらしい。例えば映画はNetflixなどで観たい物だけを購入して一度観ればもう見無い。自分の糧にしようと言う欲は持って居ないのだ。そんな事がミニマムなのか?私は物を持ちたく無いミニマムの人に打って付けの場所があると思う。それは図書館です。知識の宝庫だ。日本で販売して居る本なら何でも揃って居ます。しかも無料です。学ぶ意欲さえあれば、手軽に知識が手に入ります。自分への投資の方法として選んで損は無いですよ。あとラジオだ。これもディスク・ジョッキーが最新の情報。旬な情報をタダで提供してくれる。そしてYouTubeです。私は何時も言うが、私に情報を教えてくれる人は恋人以外には居ない。だからテレビとラジオそしてネットで仕入れる情報が指針に成って生きて居るのです。確かに本を読む行為と言うのは時間が掛かるし、根気が居る。しかし一旦手に入れた情報は知識と成り、自分が生きて行く上での血肉となり指標となる。 

 

 

 

 

 

此間、親しくして居る、ある人がblogに17歳の女子高生がイケメンの王子様を必ずゲットするんだと言う心構えでの投稿が新聞に載って居たから、その子はイケメンの王子様と結ばれるであろうと書いてあったのですが、「私は何だかなぁ...。」と思ったので。その人には悪いかな?キツい言い方かな?とは思ったが、感想をコメントした。その子はその人が書いてある事に拠るとイケメンの王子様に気に入られ様と、お化粧をし、良い洋服を着て居ると書いてあった。だから言ったのだ。彼女は「めちゃカッコイイ」だとか「食べれる、食べれる」とか言って居ないか?「勉強はして居るか?」「イケメンの王子様は利口な女性が好みだ」と。するとその人は、彼女の決意は固いそこら辺の女子高生とは違う。だから必ずイケメンの王子様と結ばれると思うと言う。その子は、イケメンの王子様に気に行って貰える様にアイドル番組でイケメンを研究し、そして付き合い方はイケメンが出て来る恋愛漫画で勉強中だと書いてあった。幼いのだ....。とても17歳の女の子だとは思えない。17歳と言ったらもう大人です。男の正体と言うものは知って居る頃だ。その子は自分の決意を熱く語ると友人は皆んな呆れて笑うと書いてあった。その事からも明白な事だ。私は悪いけどその女子高生を応援は出来ない。幼稚すぎるのです。ただ確かにその情熱は買ってやっても良いかとは思いますが....。彼女を援護したその人は恐らく17歳の少女が頑張って居るのだと評価したのだろう。男は女性に対して見目形で惚れるのでは無い。内面から溢れ出る。賢くて可愛いらしい知的な女性らしさに惹かれるのだ。それはお化粧をし、良い洋服を着て漫画で付き合い方を学んで得られるものでは無い。

 

ーkiyasumeー

 

 

人はなぜ僻むのか。相手に対して何の理由か対抗心を表したり、厳しい視線と口調で批判したり。僻む人、と聞くと、思わず身構える様にして、対応しなければ、と、思った事はありませんか?または、僻む人から身に覚えのない攻撃を受けたりして、心痛めて居る人も居るのではないでしょうか。僻むの言葉の意味を調べて見ると、「物事をすなおには受け取らずに誤解して、自分が悪く扱われて居ると思う」とあります。言い換えると、目の前で起こって居る事に、素直に喜んだり感謝の気持ちを持てず、疑いの目で見たり、すねたり、怒ったりする状況、とも言えます。 そんな、ちょっと面倒な、僻む人とはどんな人なのでしょうか。自分は違う、と、いい意味でも悪い意味でも自分を特別視して居ます。また、他人がほめられたりして居るのが受け入れられない、子どもっぽいと言う面も僻む人にあると思います。 では、僻む人の特徴はどの様なものでしょうか。また、どのような性格の人が僻む感情を抱くのでしょう。幾つか挙げて行きます。

 

大抵の人は、誰かがほめられたり、仕事でも頼られたり、任されたりする場面を見ると、「○○さんすごい!」と思いますよね。また、それを励みに、自分も頑張ろうと発奮したりして、いい刺激に成ったりする事と思いますが、僻む人は違います。 僻む人は「○○さんのせいで、わたしは…」「どうせわたしなんか」など、自分が評価されない事を不満に思い、もしかしたら、自分の努力不足かも知れないのに、他人と比べ、僻みます。 たとえ言葉に出さず、心の中で思って居るだけでも、とっさの発言や行動で表れるので、この人は何らかの原因があって僻んで居るんだなと、周囲は何と無くでも感じて居るのでは無いでしょうか。

 

 

 

 

 

僻む人は、自分以外の誰かが集まって話して居るのを見ただけで、「あ、自分の事何か話してるのかな」「わたし、何か失敗したかな」などと、自分とはまったく関係の無い話をして居るかも知れないのに、まず、そう捉え、僻みます。 冷静に考えれば、近くに居る人の事を悪く言うと言う事など、まず、ありません。しかし、僻む人は、人が口を開けば、自分の悪口を言って居る、そう言う思考に偏りがちな一面があります。 さっきの人たちが何を話して居たのか気に成って、仕事も手に付かず、作業スピードも落ちる一方。それくらい、僻む人は、自分に対してのマイナス思考が強いのです。

 

僻む人は、何でも自分に矢を向け、自分の至らなさを考える日々。向けられた矢の痛みは、素直に物事を受け取れない、人がうらやましい、そんな僻む感情、ネガティブ思考をどんどん生み出して居ます。 その日々重ねられるうっぷんは、怒りに変わります。他人をうらやんだり、自分を追いつめたりと言う僻む感情のエネルギーは、どんどん内へと溜まり、ちょっとしたきっかけで、僻む人は怒りを爆発させます。 僻む人は内向的であるがため、外へどうエネルギーを出したらいいかわからず、怒り、と言う形でしか自分を表現出来ずに、周りが困惑して仕舞います。

 

人間、失敗や間違いは誰にでもあるもの。そう寛大に受け止められる人はいいのですが、僻む人はそうは思えません。これまでの心理的原因をひっくるめるような理由と成りますが、かまって貰う、評価して貰う為には、「よく出来る自分」で居ないといけないと思って居るのです。 しかし、そう自分の思う様に事は運ばず、至らない自分、失敗ばかりの自分に目を向け、自分で評価をどんどん下げて行きます。いわば、そんな自分を認められないのです。 結果、「何をやっても失敗ばかり」「いいよね、あなたは」と、僻む人の口癖のような言葉を、顔を合わせるたびに、何度も聞く事となるのです。

 

自分の満たされたいと思う欲求が何時も何時も満たされて居る、そんな人はまず居ません。なので、満たされない自分である事を否定する必要もありません。僻む、と言う自分の感情にあなたが気付き、認めたからこそ、見えてきた大切な自分の心の内側です。僻む自分から見えて来たものは何でしょう。他人と比較して居た自分、うらやましい、ねたましい、そんな気持ちが心の中で大きくなり、さらに、自己否定もして仕舞って居たでしょうか。 他人からの評価を受けたい、認められたいと言う強い思いから、自分をいい人に繕う事に気持ちが向いて居ませんでしたか?人の助けを得てはいけない、モノを頂いたりしても、人に借りを作らない一心で、それ相応のモノを返そうとする。僻む人の心の底にあるもの、それは誰しもが持って居る、自分の心の満たされない欲求です。前述しましたが、何時も自分の気持ちが満たされて居る人は居ません。心は変化し、揺らぐ、不安定な物なので、それで当たり前なのです。

 

僻む人はその心のコントロールが出来ず、自分の気持ちを安定させる為に、自分を否定したり、他人の事ばかり目が行って、比べては落ち込み、評価されない事に立腹したり。心の底からの叫び、自分を解って欲しい、気付いて欲しい、褒めて欲しい、認めて欲しい、そんな感情が僻む心を形成して行くのでしょう。僻む感情と向き合い、その僻みに付いて知り、自分で自分自身を認める事が出来る様に成れば、僻む事でどんどん重く苦しい心も、少しずつ軽くなる日が、遠からず来る事でしょう。

 

 

 

 

私の母方の従兄弟で「純也」と言う男が居る。彼は「何で俺は其方で私たちと一緒に育てて貰えなかったのだ。もし一緒に育てて貰えれば、自分はこんなバカでは無かったし大学へも行けたのに」と言った。話を聞いて居ると、面倒を見て貰うのを当然だと思って居る。母が埼玉のその家に行った時だ。帰りに成ってタクシーを拾って帰ると言ったら。おばさんが「純也」を使ってと言うのだ。そして母は純也に送って貰って自宅に着いたら彼は手を出して、「おばさん料金は?」と言うのだ。だからまあ、仕方が無いと思い5千円を小遣いだと渡すと、こう言った「おばさん、これ片道分だよ、俺はまた埼玉まで帰らなければ行けないんだから....。」と言うのだ。母は黙って1万円札と取り換えたら「普通は片道1万円だよおばさん」と言って帰って行った。何時も自分らと私たちを比べて僻むのだ。そして山手住まいのお金がある私たちからは援助を受けて当たり前だと持って居る。そして純也は言う。「俺は拓殖大学、何て程度の低い大学に行った〇〇ちゃんにも負けるバカ!!」と言う。自分は中央大学のスクリーミングに通い。付いて行けなくて辞めたのだ。なんで僻む。自分は生まれが悪かった。だから生まれが良い私の家で育ちたかったと思い込んで居る、家がどれだけの苦労をして居たか知りもせずに。私の実家は父の給料だけではやって行けなくて、母が部屋を3部屋貸して下宿屋をして居たのだ。山手のお金持ちでは無い。私は純也に哲学書を読め、心理学書を読めと薦めたが。読んで見ると「あんなものはおかしいんだ俺は信じない」と言う。そしてフロイトのエディプス・コンプレックスを読んでこう言う「俺の海馬はブルンブルン音を立てて怒り狂って居る」。学術書だと言う事が丸っ切り何も解って居ない.....。

 

エディプス・コンプレックスとは、母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くと言う、幼児期に於いて起こる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑制の事を言う。フロイトは、この心理状況の中に見られる母親に対する近親相姦的欲望をギリシア悲劇の一つ『オイデーブス』(エディプス王)になぞらえ、エディプス・コンプレックスと呼んだ(『オイディプス』は知らなかったとは言え、父王を殺し自分の母親と結婚(親子婚)したと言う物語である)。まず子供は母親を手に入れ、父親の様な位置に付こうとする。男児に於いては母親が異性であり、ゆえに愛情対象である。子供は父親のような男性になろうとして(同一化)強くなろうとする。子供はじきに父親を排除したいと思う。しかし父親は子供にとって絶対的な存在であるので、そのうち父親の怖さに気付く。最初は漠然とした不安や憎しみしか抱いてないが、子供が実際に母親ばかりにくっついて居ると、父親は「お前のペニスを切り取るぞ」と脅すのだと言う。

 

ただしこの言葉は実際に言われるとは限らず、大抵の子供はこの脅しを無意識的な去勢不安として感じる様になる。こうして子供はジレンマに陥る。母親を求めれば「去勢される」し、父親の元に跪いて父親に愛される母親の立場に収まるのならば、子供は「去勢されて居る」と感じるのであり、どちらにしろペニスを保持するための葛藤にさいなまれるのである。この際に子供は自分のペニスを保持するために、近親相姦をする欲求を諦め、また父親と対立することも諦めて、両親とは別の方向へ歩き出す。こうしてエディプス・コンプレックスは克服されて、子供はペニスを保持しながらも社会に飛び立つ。その後の時期は潜伏期と呼ばれ、幼児的な欲求(性的な欲求)を無意識化に抑圧して、ほとんど表出しなくなるのである。エディプス・コンプレックスでは二つの側面が生じる。子供は最終的にこの葛藤から逃れる為に両親を捨てるのであるが、子供は父親と対立するために「同一化」して居た強い男性的側面と、父親から「やってはいけない」と言われた禁止事例を、超自我として形成するのである。それは良心や倫理観や理想として保持され、潜伏期以後の子供の行動を統制する様になる。

 

またエディプス・コンプレックスの葛藤を克服すると、子供は近親相姦的願望やそれに付随しているリビドー、それに去勢不安や父親への攻撃心などを無意識抑制する。これらの欲望はエディプス・コンプレックスが生じるまでは子供の思いの侭に表出されて居たが、この葛藤と克服を機に、それらは捨てられる事になる。これらの欲求は無意識に捨てられる。つまり無意識に抑制される。こうして、その頃までは曖昧だった意識と無意識の境界が明白に形成される様になる。子供はエスから自我を派生分化させて、つまり抑圧によって近親相姦的願望や去勢不安などを無意識に押し込めて、現実的な自我を作る。また同一化した部分と禁止事項が合わさって超自我が作られる。こうして三つの心的構造が作られるのだとジークムント・フロイトは主張して居る。私は純也に無意識の領域に付いて学べと言ったのだ。だが彼にはこの理屈は奇異なものとして映り、到底理解は出来無かった様だ。

 

 

 

 

また、ラカンの鏡像段階と言う考え方もある。

「ラカンにその理論的出発点を与えたのは、劇場で女優Zにナイフで切りかかり、防ごうとした女優の手に重傷を負わせた、一人のパラノイア女性である…。エメは文学者になるべく、多くの書き物を書きためて居た。三十歳を過ぎた頃、彼女は一時期、被害妄想に掛かって、病院に入院して居た事がある。そこを退院してから、彼女は自分の原稿をある出版社に送り、出版を断わられると、その出版社を訴えるべく訴状を認(したた)め、出版社の事務員につかみかかって警察の世話になる。この時は説諭のみで済んで居る。しかし彼女は女優Zと文学者P.B.とが結託して彼女の事を小説に書いて居るとか、Zが彼女の子供を殺そうとして居るとか言った内容の妄想を発展させて居た。この妄想を基にして、彼女はZに切り掛かったのだった。

 

彼女の妄想の芽生えは、彼女が初めての子を産んですぐに亡くした時点に遡れる。彼女はこの時、姉が彼女の子供を盗んだと言う観念をすでに持って居た。この観念がある友人へと、そして実際に子供を産み育てる様に成ってからも消えない侭、次に女優Zへと、転移されて行ったのである。攻撃の対象となった是等の女性像が、彼女の理想化された自己を表わしてい居た事は、比較的容易に見て取れ様。右に述べた破壊行動が現実化したあと、妄想は潮が引くように消えて行った。ラカンはこの症例を「自罰パラノイア」と名付けた。此処には、同性愛的な愛着が攻撃性を内に含む事実や、罪悪感のほうが犯罪に先立ち犯罪によって罪悪感が軽くなる症例についての、フロイトの観察が生かされて居る。エメは自らを犯罪者の位置に落とす事で、自己の理想を表わす是等の女性たちによって罰せられ、見棄てられ、見放され、かくて初めて心の平安を得たのである。人間の根源的な攻撃性が、自と他の同一化の領域にこそ潜んで居ると言う事実が、ラカンに取っての動かし難い理論的出発点となる…。鏡像段階論は、そこからの必然的な発展である。」

 

(新宮一成『ラカンの精神分析』(講談社現代新書) から以上引用)

 

 

鏡像段階
「ラカンによる、人間形成の一時期をさす言葉。それは生後6ヵ月から18ヶ月の間に当たる。この時期子供はまだ無力で、運動調節能力も無い状態であるが、自分の身体の統一性を想像的に先取りして我が物とする。この想像的統合は、全体的な形態として同じ姿をもった人間の像への同一化によって行われる。そしてその同一化は、幼児が鏡の中に自分の像を見ると言う具体的経験を通して起こり、現実のものとなって行く。鏡像段階において、将来自我となるものの雛型ないし輪郭が形成されると言えよう。鏡像段階という概念は、J.ラカンの古い業績の一つであり、彼は1936年にマリエンバードの精神分析会でそれを報告して居る。この概念は、実験に基づく幾つかの成果によって裏付けられており、それらは次の二つに分類できる。

 

1)一つは、鏡に映った自分の像を前にした幼児の振舞いに関する児童心理学および比較心理学から得られた成果である。ラカンは「―その鏡像を歓喜の表情で誇らしく引き受け自分のものにする事、また鏡像による同一化を我が物とする際の遊戯的な自己満足」を強調して居る。
 

2)第二には、動物の生態研究から得られたもので、ある種の動物は自分と同類の動物を視覚的に知覚する事のみによって、一定の生物学的成熟と構造化に達すると言う事実である。

 

ラカンによれば、人間の場合、鏡像段階が意味を持つのは、その早すぎる誕生―これは生まれた時の錐体路系の解剖学的未成熟によって客観的に証明されうるものだが―と生後数ヶ月の運動調節不全との関連に於いてである。」
 

鏡像段階(atade du miroir)

「ラカンが初めて「鏡像段階」という表現を用いたのは1936年、フランス百科事典の「家族」の項に於いてである。ラカンは、その後この主題を再び取り上げて彼の教えの中で展開して行く事になる。それと言うのも、鏡像段階は、直ちに理想自我、そして二次的同一化の基礎となる自我の最初の芽生えの成立を説明する理論だからだ。鏡像段階は一次的ナルシシズムの到来であり、しかも此れは全くの神話の意味でのナルシシズムである。と言うのは、鏡像段階は死、つまりこの時期に先行する期間に於ける生の不全と言う限りでの死を指し示して居るからだ。実際、此れは6ヶ月から18ヶ月の間に位置する人間存在の構成の一段階であり、この期間は神経系の未発達を特徴とする。この人間に於ける特有の出生時の未成熟性は、分析治療で見られる様な寸断された身体( corps morcelé ) の諸幻想に拠って証明される。この期間こそメラニー・クラインが「分裂的」と呼んだもので、鏡像段階に先立つ時期である。

 

したがって幼児は、前鏡像期に於いては寸断されたもの生きて居る。たとえば自分の身体と母の身体との間、あるいは自身と外界との間に、なんらの差異も設けない。ところが母に抱かれた幼児は、自分の像を認める事になる。実際、幼児が鏡の中の自分を観察し、鏡に映った周囲を見ようと振り向くのを見る事が出来る(此れは最初期の知性である)。そこでこの幼児の身振りと、はしゃぎぶりから、鏡の中にある自分の像に対しある種の認知がなされて居るのが解る。そして彼は、自分の動きが鏡に映し出された自分の像や周囲ともつ関係を、遊びながら試し出す。

鏡像段階は同一化の一つとして、すなわち主体がある像をわがものに引き受ける時に生み出される変容として、理解されるべきである。この像が形成的な効果を持ちうると言う事は動物行動学上の観察により証明されて居る。事実、鳩では生殖腺の成熟には同種が視界内に置かれて居る事が必要条件となる。しかもそれは鏡に映し出された自分の像で十分である。同様に、トビイナゴの弧棲型から群棲型への移行は、ある段階の個体に、類似の像の動きをただ視覚的に見せるだけで引き起こされ、この類似の像の動きとはその種固有の運動に十分近い様式の運動でありさえすれば良い。これらの事実は同種形態的な同一化の次元に属する。そこで同時に像は、すでに自我の誤認 (méconnaissance) の機能を指し示すおとりの能力を保持して居る事が明らかとなる。

 

したがって鏡像こそが、幼児に自分の身体の直観的な形を与えると同時に、自分の身体から周囲におよぶ(内界 Innenwelt から環界 Umwelt におよぶ)関係も与えると言う事が出来る。すなわち幼児は、その身体の全身像を想像的に先取りする。「主体はみずからが二重化しているのを見て、反射された、束の間にすぎない、かりそめの自己支配の像によって構成された自分の姿を見て、ただ自分が想像してい居る事に拠ってのみ、自分が人間だと思う....。

 

しかし、鏡に映った身体像を我がものとして引き受けると言う意気揚揚とさせる勝利において本質的な事とは、母に抱かれた幼児が、自分の発見に認証を与えて貰おうとする様に、彼に眼差しを送って居る母のほうへ振り向く事である。「そう、それがお前だよ、よしお」と母に認めて貰う事によりはじめて、「それはお前だ」から「それは私だ」が導かれる事になる。幼児は一連の同一化の過程を経る事で、一定の自分の像を引き受ける事が出来るのだが、しかし幼児の鏡への同一化の内実を、単なる経済論的な次元へ、あるいは(視覚的なモデルが主たる役割を持って居るとは言え)単なる鏡像の領域へ帰す事は不可能である。何故なら、幼児が自分を見るのはつねに、自分の目に拠ってでは決して無く、彼を愛したり嫌ったりする人物の目に拠ってなのであるから。此処に来て我々は、幼児の身体像を基礎づけて居るものとしてのナルシシズムの領域を、母の愛、彼に投げかけられる眼差しという点から取り扱う事になる。幼児がこの像を我がものとし、内在化する事が出来る為には、彼は大文字の他者(この場合は、母)に於いて一つの場所を持たねば成らない。よしおと言う名で呼ばれる権利(ないしは呼ばれる事の禁止)をもたらす、この母による認知のしるしは、一なる印として働く様になり、そこから理想自我が構成される。この点では、「盲人でさえ自分が眼差しの対象である主体である」。

 

しかし鏡像段階が、人間がはじめて自分が人間であると言う経験をする原初の出来事であるとすると、人間が自分を認知するのは他者の像(他なる鏡)に於いてである事になる。人間はまずはじめに、他者として自分を生き自分を体験する。さらに鏡の中に自分を認知するのと平行して、幼児には同等の年齢の者に対する特別な行動が観察される。幼児は他者を前にすると興味深く観察し、そのしぐさをいちいち模倣し、文字通りスペクタクル(光景=見せ物)の中で、その他者を引きつけ、あるいはその気を引こうとする。それをただの遊びにすぎないとして仕舞う事は出来ない。幼児はそうした行動によって、この年齢ではなお不完全な協調運動に先んじて居るのであり、また他者になぞらえる事で自分を社会的に位置づけようとして居る。重要なのは、彼を承認する資格を与えられて居る者を彼の方から承認する事であり、その者に自分の価値を認めさせ、その者を支配する事である。

 

互いに向かい合った幼少の子供に見られる転嫁現象( transitivisme) にはじつに驚かされるが、そこでは文字通り他者の像に騙し取られて居る。ぶった子がぶたれたと言い、そちらの子の方が泣き出して仕舞う。此処に認められるのは、想像的審級つまり双数的関係、自身と他者の混同であって、人間存在の構造に関わる両価性と攻撃性である。自我とは、反転した構造のうちにある鏡像である。主体は自分を自らの像と混同し、自分の似姿との関係の中で、写しによって同時に想像的にだまし盗られて仕舞う。したがって主体は、自ら差し出す事に決めた自分の像のうちに疎外されて居るのである。しかも主体はその疎外について無知であり、こうして自我の慢性的な誤認が形成される。主体の欲望についても同様の事が言える。つまり主体は、他者の欲望の対象の中にはじめて自らの欲望を見定める事が出来る。

 

鏡像段階とは構造論的な交差路であり、そこで交わって居るのは以下のものである。

 

1.自我の形式偏重。幼児はある像へ同一化するが、この像は彼を形成する一方で、しかし原初的に彼を疎外し、他者に同一化する転嫁現象に於いては彼を「他者」として仕舞う。

2.人間存在の攻撃性。自分が消滅されたくなければ、自らの場所を他者から勝ち取り、他者に自分の価値を認めさせねばならない。

3.欲望の対象の出現。その選択はつねに他者の欲望の対象に準拠している。」

 

 

 

 

以上が心理学で私が純也に知って貰いたかった事です。彼の姉の恵さんはこの私のblogのアドレスを教えろと言って来て、私が教えたら。「此れでそっちの事が筒抜けで全部分かるわ!」と言うのです。同じく今日書いて来た訪問看護師の女の子もblogのアドレスを教えろと言い 、教えたら「看護師全員に見せて居る節がある。彼女も「これで全て解るわ」と言って居た。なんて醜い根性なんだ。そして看護師の女の子は自分が知ら無い事を書いてあるから僻んで疎ましく思い。私に大皮肉を言う。人の勝手ですよ。嫌なら、見なければ良いだけです。人と自分を比べて自分が劣るからと言って僻んで皮肉を言うのはどう言う物だかと思う。もう良い加減に辞めなさい。人に敵意を向けて皮肉を言う暇がったら、本の1冊でも読んで居た方が良いのです。

 

この人たちに言える事は、自分は無いのか?と言う事だ。自分のくだらない幼稚な知識で、人を推し量り、それで自分は満足して居る。私から学ぼうともしない。私は結構色々な事を言って居るのだ。しかし聞く耳を持たない。それは私の言う事が全く知らない事だからだ。学ぼうとはしないらしい。そして頭に来て皮肉を言う。人間自尊心が幾ら高くても教養が無ければ何にも成らないのですよ。今回、私はホワイトカラーとブルーカラーに付いて書いて来た。物事は起こる事は幾ら偶然だと思って居ても、必然なのだと言う事を解って貰いたい。偶然ならば、それを必然に変える様に努力をするべきだと思う。偶然の侭に翻弄されて生きて行って何に成るのですか。知識は自分で自分に投資をしなければ身に付かない。人を見て皮肉を言って居る暇がったら自分も学びなさいと言いたいです。知識は自分へのアップロードで増やすのです。


 

 

 

 

 

 

 

 

==懐かし映画劇場==

 

 

 「トワイライトQ」

シリーズ全6話で構成される予定であったオムニバスの物語。アメリカのテレビドラマシリーズ『トワイライト・ゾーン』、『アウターリミッツ』や、日本の特撮テレビドラマ『ウルトラQ』の路線を狙った構成であった。

 

1話目は『魔法の天使クリーミー・マミー』からの繋がりで、脚本家の伊藤和典とキャラクターデザイナーの高田明美がアニメ監督の望月智充と組んで、時間テーマの正統派の娯楽SFアニメ『時の結び目 REFLECTION』をリリースした。

 

2話目は原案からタッチした押井が、「訳が分からない作品を作る」と風評が立ったOVA『天使のたまご』や実写映画『赤い眼鏡』と言った流れの作家性を強く発揮された作品『迷宮物件 FILE538』をリリースしている。

 

結局、6話予定だったこのシリーズは、2話で制作が終了する結果となった。だが、2話目で試みられたような、抽象的な映像と難解な長台詞による独白で構成される内容、実際の風景写真を取り込んだ独特の映像手法、テーマなどは、のちに劇場版『機動警察パトレイバー』にて結実する。

 

 

ーストーリー

探偵がある親子の調査を依頼されるところから物語は始まる。その夏、首都上空では原因不明の旅客機失踪事件が相次いでいた。探偵はその親子の調査を続けていくうちに自分も次第に奇妙な物語の中の一部に組み込まれて行って仕舞う。

 

 

本編ノーカットです。

 

 

 

 

 

数ある押井作品で、いちばん何度も観ているのはこの『迷宮物件』であろう。むろん好きな作品である事もさる事ながら、30分という短さが気軽に観る気を起こさせたのである。逆に、押井守に対して余り知らないの友人等に貸して、最も「訳が解らん」と言われた作品もこれである。

 

当時、業界は一種のバブル期だった様に思う。色々なオリジナルビデオアニメが次々と出、巷にレンタル・ビデオ屋がどんどん増えた。『トワイライトQ』なるビデオアニメ企画が立ち上げと言う話を聞いて結構期待したものである。『トワイライトQ』の第一話はたしか『時の結び目』と言う作品だった。さっそく購入して来て(初めはレンタルで借りた。)少々がっかりした。ありふれて居て、全く面白くは無かったからだ。当時すでに可成りな押井ファンとなって居た私の目には、なんだかアリガチで俗な作品に映ったのである。

 

しかし、第二話であるこの『迷宮物件』は、私の好みにずばり合った作品だった。暗い男のモノローグが延々と続く。そのストーリーは、事情を知らない他人に説明するのに窮するたぐいのものである。しかし、いいのです。もうひとつ関係ない話をするが、当時、角川(だったと思うのだが)から『迷宮物語』なるオリジナルビデオアニメが出ていた。押井監督自身の言にも「さんざん間違えられた」と言うものがあったが、確かに紛らわしかった。『迷宮物語』はこれもおぼろげな記憶で申し訳ないが、たしか3つのエピソードからなるオムニバス形式で、全体的に余り好きで無い角川アニメとしては割と好きな作品だった。

 

押井監督によると、この作品は『天使のたまご』の後日談だと言う事だが、いまだにどういう部分においてそうなのかよく理解できない。まあ確かに登場する「女の子」は「タマゴの殻」を象徴すると言うヘルメットをかぶっては居るのだが、押井監督の言う様な「ひよこ」のイメージには思えないのだ。むしろ、あの女の子は鼻を垂らして居て「のら犬」に見えるのは私ばかりではあるまい。作品の内容は、一言で言えば「難解」だ。先に述べた「エピステーメー」との対比で言えば、これは「類似」の要素よりも、「表象」の要素が大きいように思える。外観が似ている(神ならぬ身にはあんまり似て居る様には思えないのだが)「旅客機」を、「魚」と呼び替えると言う作業は一見「類似」の思考に近しいものとも思われるが、言語的な操作―指示する言葉と指示される物とのねじれた関係や、物語論に関するギミックなどは、やはり「表象」の思考空間に展開する作品と観て良い様に思う。この作品から、押井作品群は全体として「表象」の知的領域へと踏み込んで行く様である。

 

此処で提出された「神様」のまなざしについての考えは、後の『パトレイバー2』に引き継がれて言ったのでは無いかと想像して居る。

あと、『迷宮物件』に特徴的なのは「音」である。この作品、映像もさる事ながら、ことさら音に凝って居る様に思えるのだがいかがであろうか。そう言えば、この頃、アニメの世界では「ドルビーステレオ音声」が流行って居た様に思う。各部分で使われて居る効果音は秀逸であったが、実の処、私はステレオにテレビを繋げて、ドルビーサラウンド・ステレオを楽しんで居た。ステレオのスピーカにサブスピーカーを常設し、効果音も再生して居たのだ。しかし、ドルビー・サラウンド・ステレオは迫力がありすぎる。よく1階のお勝手で食事の支度をして居た母がうるさいと怒って注意しに来た物です。今となっては懐かしい思い出です....。

 

今回は以上です。此処まで読んでくれて有り難う御座いました。コメントなど頂けると励みに成ります。よろしくお願い致します。。。

 

 

 

 

1972年当時人気があったアイドル歌手、麻丘めぐみさんです、彼女は清純で可愛い色気があった歌手でした。この時期は山本リンダなども出て来て居ました。私は山本リンダも好きでした。しかしその後に出て来たキャンディーズとピンクレディーは幼稚に見えて嫌いでしたね。今、体調がまた悪いです医者まで後3日間なので頑張ろうと思って居ます、来週に病院に行ったら検査が待って居ます。レントゲン。CTスキャン。エコーなどです。とにかく気が落ち込んで仕方がありません。だから更新はやっとの思いでして居ます、どうせ気分が落ち込んで居てラジオぐらいしか聴けず。テレビやら楽しみにして購入したり録画したBlu-rayなども観られず。布団にくるまって毎日寝て居ます。要約「ヴァイオレット・エヴァーガーデン 」の北米盤TVシリーズだけ全2枚観ましたが......。そう言う訳ですので、よろしくお願い致しますね。それではどうぞ読んで見て下さいね。。。

 

 

 

 

麻丘めぐみ麻丘めぐみメドレー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は最近食欲が旺盛だ。自分でも食べたのに、何故こんなにすぐに腹が減るのだろうと思うのですよ。この様に食欲亢進の症状があるときに少し気を付けたいのが、病気や薬の影響です。副腎皮質ステロイド、抗ヒスタミン剤のペリアクチン、セルテクトなどを使ってる場合、食欲亢進の副作用が出る場合があります。抗精神病薬は抗ヒスタミン作用を持つものが多いので、抗精神薬を服用している場合は食欲亢進が見られます。持病がある人や常用している薬がある人は、病気や薬のせいで食欲亢進になるケースも少なくないのです。だから今は病院で食事の指導を受けて居ます。しかし根本的な原因である薬の副作用は治せません。幾ら自分で食べ物のカロリーを気にすると言っても限度があります。私はおやつは寒天です。それに時たまパンを食べます。昨日は、まだ夕方の4時ですが海苔巻きをかっぱ巻き、鉄火巻き、納豆巻きと食べました。これでお腹は一杯なはずです。しかし7時頃になるとお腹がまた減るのですよね。昼は中華丼を食べました。今日は朝はコーヒーと食パン1枚だけです。以前は野菜炒めを食べて居ましたが、スーパーまで調子が悪く買いに行けません。だから食べて居ません。

 

主治医は野菜を多く食べてくれと言いますが。何故だと思いますか?実は抗精神薬を飲んで居ると便秘になるのですよ。だから植物繊維を沢山取れと言って居るのです。主治医の精神科医は薬のせいだとは口が裂けても言いません。私なんか前に太ったと言ったら「自分で見境もなく、ぐちゃぐちゃ食べて居るせいだろバカが!!」と罵声を医者から浴びせられました。その時は「自分が食べすぎて居るからか?」と思いましたが。今は大きな書店に行けば精神医学書も置いてあります。それにネットで調べれば薬の副作用とちゃんと出て来ます。それからですね、私は一見若く見えても、もう64歳のジジイです。中年から老年期はただでさえ体重が増えます。その上に薬の副作用です。賜ったものではありません。例えば精神病院で2ヶ月入院すれば食事療法が受けられます。そして2ヶ月でほぼ10kgは痩せられます。訪問看護師でさえ「とても真似出来ない」と言うほどの食事療法をされます。でも「精神病院の食事のメニューはどうやって作って居るのか解らない?」と言って居ます。謎なのだそうです。私は食事と共に入院中に飲まされる薬に痩せ薬を盛れて居ると踏んで居ます。前にも書いたけど痩せ薬はあるのですよ皆さん。内科医に聞いてご覧なさい。その薬の名は「マジンドール」と言います。処がこの痩せ薬。後遺症が出る上に、体重が100kgを超える患者以外の人には処方されません。以前、内科医に聞いた事によると脂肪を剥がし取るのだそうです。だから肝臓が悪くなるそうです。

 

私の弟は医者でしたが。ある時に102kgの患者が居たそうなのですが。体重の重みで体が悲鳴を上げて居たので。痩せ薬を処方して上げたそうです。彼女は51キロまで痩せました。半年掛かりましたが。私は以前自分から漢方薬のツムラから出て居る、「防風通聖散」と言う薬を主治医に出してくれと言って飲んで居ましたか。何時頃からか出して貰えなくなりました。。あれ飲むと日に8回は便が出て。便秘も治り体重も減るのですが。しかも漢方だから安心でしたのにね。嫌がらせなのかなんだかねぇ、、理由があるのならば医者なんだから理由が言えるはずでしょうにねぇ。だからこの間の診察日にもう一度この漢方薬「防風通聖散」を出して貰いました。そしたら先月。「漢方薬は要らないでしょう省くよ」と言うのですよね。こちらは漢方薬を出してくれと言って居るのに。それと此間は中華丼をバーミヤンから取りました。食事指導の女の子の先生が「中華丼ならいい」と言って居たので。そして明後日は病院の帰りに笹陣で蕎麦を食べて来ようと思います。此処の所、食べて居なかったから。たまに、この辺には定食屋があるので。そこから、うどんと定食。出前で持って来て貰ってます。うどんを昼に食べて。塩ジャケ定食を夜に食べたりとかね。料金が安くて1,080円なんですよね。2つで。安いでしょう。サラダも味噌汁もついて居るしね。それ食べて居ますよ。出前はたまにしか取りませんよ。

体重が増える

抗精神病薬の中には、服用することで食欲を亢進させて体重を増やしてしまうものがあります。精神疾患にかかると、食生活や生活習慣が乱れたり、運動不足になることがありますので、日常の食事や運動などで体重コントロールを心がけましょう。

 

 

 

浜田マロン「マヤカシのブルース」

 

 

 

 

 

私の部屋です。掃除が出来て無くて散らかって居ますが。。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、加藤茶のインタビュー番組がラジオでやって居たが、、インタビュアーの中年女のインタビューを聞いて居て、なんだろと思った。何故なら自分の旦那が週刊誌を読んで、記事見せて、「45歳差の奥さんが脂っこい物を食べさして加藤茶を殺そうとして居る。揚げ物しか食べさせないと言って居る」と加藤茶に本当かと聞いて居るのだ。そうしたら加藤茶は、「ああ、そんな事を言われた事もありましたね」と相手にして居なかった。そして言ったのは「女性は精神年齢が男より高いですね、彼女ははじめ若かったけど。すぐに同等に追いついて、今や私より上を言って居ますよ。最近はこの食事は薄味で食べたくないと言うと「いけません。食べなさい」と怒られて居ますから」と言って居た。私は加藤茶は恐らくは奥さんに遺産を残して死んで行こうと思って居るのだろうな。と思って居ます。人は醜いから人の家の事情に口を挟む。加藤茶は奥さんを物凄く愛して居るのだ。これは他の番組だが、若いカップルにインタビューしたら若い夫婦づれで、「こいつ可愛いんですよ。俺は毎日会社から帰る時にこいつの事しか思って居ませんよ。本当に女房可愛いんですよ」と惚気て居た旦那が居た。横に居た奥さんが顔真っ赤にして「言わないで、、」と言って居た。

 

これは最近の傾向らしいが。30代40代の夫婦間が上手く行かなくて10代の中学生の女の子やら女子高校が妊娠するケースが後をたたないそうだ。ネットの有害動画のせいだろう多分ね。親が子供に私はどうして生まれたのと聞かれて。親が「それはお父さんとお母さんが愛し合ったからだよ」と聞かせたらその子は高校生になってセックスをして妊娠したそうだ。理由は愛が無かったらセックスしても子供は出来ないと本気で思って居たと言うのだ。呆れるが本当の話らしい。今から20年ほど前だが立川の駅のベンチでスカートが捲れてパンティー丸出しの女子高生が居た。私は「なんだ?」と思って居たら、あるおばさんがその子が気がついて居ないのだろうと思い。「お嬢さん、下着見えて居るから気をつけたほうがいいわよ」と言ったらその子は「うるせ〜ババア!!あたしは男に見せてるんだ!!」と言った子が居た。私は世も末だと思って見て居た。処で最近の女の子たちは脳軟化と言う言葉を知らない。私が1990年代に立川の第一デパートに入って居たオリオン書房で、「脳軟化には何を言っても通じないぞ」と言った本が立て積みに置かれて居たのを見た事がある。今みたいに認知症だとは言わなくて脳軟化と言って居た。まあ、本来の脳軟化の意味とは違うのだが、痴呆をそう言って居た。まあ、痴呆と言えば今の人達も分かるのだろうけど。

 

昔は痴呆とも言わなくて脳軟化に成ったらお仕舞いだと言って居た。考えて見たら私の母親は1996年ぐらいからもう一緒に立川まで行きたくないと言い出して、家でゴロゴロ寝て居た。その頃からすでに痴呆が始まって居たのだろう。だから2000年代ぐらいになると認知症の症状が出始めた。私が印象深く覚えて居る事はうちには、中国人から貰った象牙の菩薩像があったのだが、母はその菩薩を見て私に「なんてこの菩薩はこんなに悲しい顔をして居るの?」と言った事だ。母にはそう見えたらしい。思うに神様が居るとしたら母を哀れんだのだろうと思う。人はよく人の事を考え違えて見る事がある。私は此間書いた「聲の形」では無いが。小学校の頃。私立から編入して来た女の子が居た。正直可愛くは無かったがそれなりの顔はして居たし。物凄く礼儀正しかった。ただ小学生らしく無かった。子供の知能のまま大人の言葉を話すと言えばいいのか。それは両親の躾だったのだろう。一度私が「友達と一緒にうちに遊びに来いよ」と声をかけて連れて来た事があったが。母がケーキと紅茶を出したら。「お母さん、どうかお気遣いなくすみません」と言った。母はびっくりして「子供はね、そんな事は気にする事は無いのよ」と言った。しかし同級生はそんな彼女を矢張り煙たがった。矢張り「聲の形」同様。クラスの大半の同級生たちが煙たがった。公立で私立見たいな事を言ったらいじめられるだけだ。案の定、いじめられて居たし。先生もその子の事をよくは思わなかった。

 

ある日。私が廊下に一人で居たらその子が私の後ろに立って居た。私は暫く気づかずに居て「あれ?」っと誰か居るなと思って後ろを見たら。その子が黙って涙ぐんで居た。私は「どうしたんだよ....。」と言ったら。何も言わずに玄関まで行って鞄も持たずに家に帰って仕舞った。そしてその子は学校を転校して行った。私はよく話を聞いてやればよかったかなと思ったが・・・・。それからもう一人。高校の時に混血の美人の女の子が居た。その子には悪いボーイフレンドが居て。私の見て居る前で、「こいつ不良だ!!」とその子を打ったので見てられなくなり止めた。そうしたら私が思いっきり殴られた。彼女は鼻血を出した私をびっくりして見て居たが。私は口の中も切って血が出て血が混ざった唾をペッと吐いたら。その子は泣きそうな顔をして教室を出て行って仕舞った。正直言って私はその子に惚れて居た。しかし自分から声をかける勇気もなく。ただカトリーヌ・ドヌーブによく似たその子を可愛くて美人だなと思って居た。その子はすごい嫌がらせをされて居た。混血と言うと今は美人でいいと思うだろうけど昔は違った。嫌われたのだ。その頃の曲でリリィと言う名の女性シンガーソングライターの「私は泣いて居ますベットの上で」と言う流行った曲がある。その子の名がリリィだった。偶然だけどもね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その子は男子教諭と関係を持っただとか。男と遊んで居るとか。凄く嫌がらせを言われて居た。修学旅行の時だ。男と女と別棟のホテルと言うか旅館?と言うかまあ、ビル建ての、ホテル見たいな処に泊まった。ただ教師もそこまでは気が付かなかったのだろうけど。別棟の向かい合った建物の2階下が女の子の泊まる部屋だった。夜と言う事もあって女の子たちはパジャマに着替えるので服を脱ぎ始めた、向かいの建物の2階上は男の部屋だ下の女の子たちの下着姿が丸見えだったのだ。男どもは皆んなして喜んで見て居た。その時。その混血の女の子が下着姿になったら皆んなして、「あいつは、あんな、いやらしいパンティー履いて居るぞ。矢張り男と寝て居るんだ。」と言って居た。私も見たが普通の下着だった。そして私がある時に校庭で立って居るとその時も後ろに人の気配がした。私が振り返って見たら。その子だった。彼女は私に一言「さよなら、、」と言って。そのまま自分を振り切るように私に背を向けて走って居なくなった。私は「なんだろう」と思った。まさか自分に気があるのかとか一瞬頭によぎったが。そんな事はないだろうと思った。それから暫くしてその子は高校を辞めた。人伝に聞くと他の高校に編入したらしかった。

 

それから3年ほど経って私も20歳になって居た。障害を持つ様になる直前だ。そしてある日、ある時に渋谷で店を見ながら、歩いて居たらばったりその子が歩いて居るのを目にした。髪をカールし物凄く可愛い美人になって居た。そして隣には外人のボーイフレンドが居て手を繋いで歩いて居た。英語を話しながら。私はキザに「グットラック...。」と呟いて「俺はバカだなぁ..。」と思ってその場を離れた。この話には後日談がある。なんと彼女を打ったのを止めた私を、思いっきり殴った男が私の家に来て。「ポーカーで金が必要なんだ。金貸してくれ3千円でいい」と言うのだ。私は怒って言った「金なんてねえよ。ましてやお前にやる金なんてねえな!!」と言ったら「必ず返すから、お前と俺の中じゃねえか」と縋り付く。私は「人を思いっきりぶん殴っておいて何言ってるんだ。このバカが!!」と怒鳴ったらそれでも言い寄るので「俺はな!!女を殴るような奴に貸す金なんてねえんだよ!!」と言ったら要約帰って行った。以上、女の子に対する思い出です。話は以上です。

 

 

 

 

 

 

 

最近は自分の尺度で人を推し量る人が多い。私の事をとやかく言う人は沢山居る。例えばこのblogだ幼稚な文を書きやがってと言う人も居る。私は哲学が好きだったから、今まで書いて来たが大抵論争を吹っかけられた。そして自分の言う事の方が正しいと言うのだ。確かに哲学の歴史はそうして発展して来たものだ。論争をしながら枝葉に分かれて発展して来た。だが私は哲学者では無いし。また高度な論争が出来なければ哲学を語んななどと言って居たら、一般の人は哲学から益々離れて行って仕舞う。哲学とは、語弊を恐れずにわかりやすく言えば「真理を探究する知的営み」の事だ。世界の根源や本質を見極めるための知的探究的な取組、および、その知的探究を方法的に進める為の学問です。 哲学は英語では philosophy(フィロソフィー)と言います。この語源はギリシア語の φιλοσοφία (philosophia)であり、もともとは「知を愛する」(laving knowretge)と言う意味の言葉です。この為、「哲学とは何か」と言う問いに対しては今日でも「哲学とは知を愛する営みの事である」と言われて居る。哲学の「哲」の字は「明らか」「賢い」「聡」と言った字義があります。「哲学」と言う言葉は明治初頭の碩学・西周が、《 philosophy =知を愛する学問=希哲学 → 略して「哲学」》 と言う流れで考案し定着した訳語として知られて居ます。

 

哲学者は世界中に居ます。ドイツ・フランスの哲学だけでなく。アメリカのプログマティズム。経験主義的なイギリス哲学。イタリア哲学。私がよく使うアントニオ・グラムシのヘゲモニーと言う概念の言葉(覇権、私は主導権と訳して使って居ます)。またドイツ語のヒエラルキーは(階層または階級と訳して使って居ます)。このように哲学書を読むと見識が広がりますよ。私は論争に巻き込まれて馬鹿にされるのも嫌だし、足の引っ張り合いも支度張りません。だからもう哲学についての論考などは書きません。最近は調子が悪いです。前に。ある聴覚障害者の女性の為に京都アニメーションの名作アニメ「聲の形」のあらすじを書いたのですが。彼女は大変に喜んでくれたので良かったのですが。映画を見てからだいぶ経って居た事もあり。ストーリーの確認の為に部分的に見たのですが大泣きをしました。私の書いた粗筋はだいぶ話を省いて書いたのですが。書きながらも泣きしました。私は今鬱です。ですからただですら悲しい。お陰で前は危うく自殺願望が出て仕舞いました。歌を聞いてもそうなんですよ。涙が溢れて来ます。そして此間。要約テレビシリーズ全話を見て劇場で映画も見た「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」です。この作品もある女性に教えてあげたらその人も喜んで見て居まして。今回は「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」が戦争の話でしたので。戦争とは、人を殺すとはどう言う事かと言う事に付いて考えて見ようと思います。

 

 

 

 

私が好きな青木志貴ちゃんです。。。彼女は声優でモデルで、アパレル・ブランドのデザイナーで、舞台俳優で、歌手で、YouTuberです。皆さんも、応援宜しくお願いしますね....。╰(*´︶`*)╯♡

 

 

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人は殺人を忌避するのか

 

戦争には殺人と言う行為が伴います。人類の歴史を紐解けば多くの戦いが記録されており、当然そこで人は殺し殺されて居た訳です。では、人の本性は殺人をよしとして居るのでしょうか。こう言った疑問に対し、第二次世界大戦中、実戦に参加した直後の兵士に対してグループ・インタビューによる聞き取り調査を行っていたS.L.A.マーシャル准将は、1947年に発表した"MEN AGAINST FIRE"の中で、次のようなデータを提示しました。

敵との遭遇戦に際して、火線に並ぶ兵士100人のうち、平均してわずか15人から20人しか「自分の武器を使って居なかった」のである。しかもその割合は、「戦闘が一日じゅう続こうが、2日3日と続こうが」つねに一定だった。

出典:デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)

「戦いに際して兵士の15~20%しか発砲しない」。マーシャルはこのデータに基づき、兵士は他者を殺害する事への忌避感から発砲しなかったとし、これは米軍に留まらず第二次大戦に参戦した各国でも共通であったと主張して居ます。マーシャルが示したこのデータは、元米陸軍士官学校教授のデーヴ・グロスマンによる『「人殺し」の心理学』(1998年、原書房)とその文庫版である『戦争における「人殺し」の心理学』(2004年、ちくま学芸文庫)で日本に紹介され、広まったと考えられます。

 

そして、グロスマンが本の中でした主張も、その根幹はマーシャルのデータに依っており、第二次世界大戦で2割以下だった発砲率が、朝鮮戦争、ベトナム戦争と時代が下るに従い大幅に上昇したデータを提示し、その要因として兵士に取り入れられた訓練手法を挙げて居ます。この訓練は敵を自分と異質の存在とみなして人間性を否定するもので、この様な非人間的な訓練によって高い発砲率を可能にしたと説明して居ます。

 

イスラエルの軍事史家、マーティン・ファン・クレフェルトはこの様な主張を「研究者の中には殺人は人間に生来備わったものではないと主張する者も居る。殺人を可能にする為には、まず自らの側を野蛮化し敵を非人間化する必要がある、と言うのである」と要約し、「これは、石器時代からこの方、人間が起こしてきた戦争についての我々の知見のすべてに真っ向から対立するものの様だ」と懐疑的に見て居ます。

 

イギリスの軍事史家ジョン・キーガンは『戦場の素顔』(2018年、中央公論新社。原書は1976年)の中で、マーシャルの主張は歴史家としては珍しく、マーシャルの生前に世間に受け入れられ実地に移されたとしており、その影響を評価しています。事実、1980年代に"MEN AGAINST FIRE"は、米陸軍指揮幕僚大学の必読書リストに入っており、1983年に改訂された米陸軍野戦教本にもマーシャルの影響がありました。

 

日本への影響

 

アメリカに大きな影響をもたらしたマーシャルでしたが、日本も例外では無い様です。前述した通り、日本でマーシャルの主張が広まったのは、グロスマンの著作による紹介以降と考えられます。そして、その影響はメディアに多く見られます。

 

本来の人間は殺人を忌避するもので、訓練によって殺人を厭わなくする事が出来ると言うマーシャルのデータとグロスマンの主張は、2015年の安保法議論の際に朝日新聞『天声人語』(2015年5月29日朝刊)や、毎日新聞のコラム(2015年5月15日朝刊)に引用されて居ます。また、中日新聞『中日春秋』(2012年10月28日朝刊)では、軍の訓練とゲームの類似性から「人が人を撃つ事への心の壁。それを壊す術を、子どもが家庭で身に付けて仕舞う時代になって仕舞った」とゲームへの批判的な文脈で言及されて居ます。

 

此れだけに留まらず、マーシャルのデータは最近はAI兵器を巡る記事や、マンガと言った創作の中でも使われるなど、日本にも大きな影響を残して居ます。私自身もマーシャルのデータをグロスマンの本で知り、そう言うものなのかと思って居ました。また、放送大学院をテレビで観て居た際、2人の教員がマーシャルの主張に基づくと思われる発言をしたのを記憶しており、アカデミックな分野でも影響が及んで居ます。

マーシャルへの疑問

米軍にも大きな影響を与えたマーシャルは1977年に亡くなります。処が1980年代になると、マーシャルの主張の信憑性に疑問を呈する声が軍事史学者の中から出て来ました。例えば、元米陸軍指揮幕僚大学教授で軍事史家のロジャー・スピラーは、マーシャルの死後にテキサス大学図書館に寄託されたマーシャルの資料の中に、兵士に発砲の有無を問う質問の記録は無く、マーシャルの元同僚の証言も無い事も明らかにし、発砲率に関するデータは裏付けが無い捏造と見て居ます。

 

また、"MEN AGAINST FIRE"の中で、マーシャルは400の歩兵中隊に対して聞き取り調査を行ったと主張して居ますが、マーシャルが主張するその数は1950年代の講演では603個中隊、1957年には500以上とするなど、重要なデータであるにもかかわらずブレがある事も、スピラーは指摘して居ます。マーシャルは1個中隊の聞き取りに2、3日を要したと語っており、全ての時間を費やしても400個中隊だと2年以上、600個中隊なら3年以上かかる計算になります。マーシャルが兵士への聞き取りを始めたのは1943年11月である事から、戦時中にマーシャルが主張する数への聞き取りを行うのは不可能で、カナダ王立軍事大学のロバート・ベイトマン准教授は、このデータはマーシャルの創作であるとみなして居ます。

 

また、個人としてのマーシャルも、話を誇張して書く事が指摘されており、例えば自身の事を第一次世界大戦中の米外征軍で最年少少尉と主張して居ましたが、退役軍人で作家のハロルド・レインボーは、第一次大戦中のマーシャルは工兵隊の軍曹だったと指摘しており、その他にもマーシャルの主張する経歴と記録上の経歴に差異がある事が分かって居ます。前述した軍事史家のキーガンは、マーシャルの目的について、歴史を記述する事では無く米陸軍に戦争のやり方が間違って居ると悟らせる為だったとして居ます。戦間期にジャーナリストであったマーシャルは、歴史的真実を明らかにするのでは無く、個人的信念を達成する為に歴史家として活動をして居たのです。

 

この様に、データの根拠となるものが確認出来ない以上、マーシャルの主張は無批判に受け入れられるものでは無いと考えられます。前述のようにマーシャルの主張への懐疑論は1980年代には見られて居ましたが、軍事史学の外国語論文として発表されて居る為、日本への紹介が遅れて居た様です。その為か、マーシャルのデータは無批判に様々な処で引用され、現在もその影響は大きいものになって居ます。戦争で精神に傷を負う兵士の話は昔も今も尽きませんが、今回「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の中で「ホッジンズ」に「君の体は知らない間に、火傷を沢山負って居るよ。君はまだ解らないだろうけど、、」と言われた戦闘員で、、

 

『ライデンシャフトリヒの戦闘人形』

 

と呼ばれたヴァイオレットが、その自分が犯して来た業を見つめて苦悩するシーンには訴え掛けて来るものがありました。

 

 

【ヴァイオレット・エヴァーガーデン】 「Sincerely」 (MAD) 

 

 

 

 

 

 

 

「映画」の方は映像と細やかな演出との秀麗さにただただ浸るばかり。そして涙。

崖の上での兄弟再会。兄のディートフリードの、ヴァイオレットの元に

「行けよ」と、ギルベルトとすれ違うときのモノ言いたげな瞳。

あれはやはり、兄から弟への
 

「生きて、自由になりなさい」「心から、愛している」
 

なんでしょうかね。大佐殿の不器用さ、いいですね。お前こそ素直になれよと。

それとデイジーへの郵便局長? のサムズアップ
あそこではもグッと・・・・・。

ヴァイオレットは子供達にどんな表情であれを教えたのか?
ユリスの前での様に無表情な侭か それとも優しい笑顔?
島に移って変化はあったのか?サムズアップで心が動いたのは

初めてでした。

なお郵便局長? が、勝手、ヴァイからギルへの手紙を託された子供だと

いいなと思っても見ましたが、髪の色も違うし、別人なんでしょうね。

あとは海での再会シーン。一番泣けるシーン。自分を追って乗って居る船に向かって

「ヴァイオレット」と叫ぶギルベルト。その声を聞いて船の甲板から海に飛び込む

「ヴァイオレット」そして再会。向かい合う2人。しかし泣き濡れて何も言えない

「ヴァイオレット」見ように寄っては、何もたついてるんだ?と思える

でしょうけど、いやいや違う。少佐が自分との再会を拒んで居ると理解し,

静かに去ろうとする「ヴァイオレット」。それでも船上から、少しずつ遠ざかる島を

ただただ見つめた彼女のあの彼女の内に、此れだけの感情が秘められて居たかと
いい歳して少女の感情に同調して仕舞うのは自分でもどんなものなのかとも思いますが
あの演出には、心が揺さぶられます。まさに号泣。

自分の心にこんなに響くと思わなかった。まさに京アニが作り上げた名作アニメ映画でした。

 

 

 

 

 

私の生活は単調だ。朝起きてネットを見て。スマホとパソコンに届いて居るメールを読んで返信する物があればして。自分のblogを見て。人が誰が来て居るかを見て。また人の所にも見に行き。その間。音楽を聴いて居るかラジオを聴いて居るか?して居て。そして薬の副作用で3時間半は寝てしまうので、夕方頃に成って本を読んだり、ハーモニカ吹いたりして居る毎日です。ああ此処の所。吹いて居たハーモニカが4本壊れたので。Marinband classicのkey,CとOld Standbyのkey,DとF。そしてMajorboyのminor key,Cmを購入しました。金掛かったけど壊れたので仕方が無いですね。ハーモニカは特にブルースハープはすぐに壊れるのですよね。この事を知らない人の方が如何に多いかと思います。普通のハーモニカでも良く音出なくなるでしょう?処で昨日、ハーモニカ吹いて居て新しいフレーズのバリエーションを見つけ出した。日々吹く事に拠ってフレーズはコピーすると言うのでは無く自然と出て来る物なのですね。私なんかは色々な音楽聴いて居ますから。クラシックもボサノバもラテンもブルースもジャズもロックも演歌もJーPOPも映画音楽のサントラも聴くからハーモニカ吹いて居ると聴いて居て印象的に思ったメロディーが自然と出て来る。勿論クラシック奏者の様に、譜面は読まないのでアドリブです全て、だから一度吹いて今の良かったと思っても。また2度とは吹けない事も侭有りますが。昨日考えたバリエーションは良かった。此れから頻繁に使うフレーズのメロディーに仕様と思います。なんか落ちが最後ハーモニカですみませんです。。。。

 

 

 

調子が悪い顔して居るな。矢張りこうして見てみると・・・・・。

 

 

 

 

 

また同じ音源ですが、、、まだ聴いた事ない人が居たりしたら聴いて見てやって下さいね。ヘタですけどね.....。

 

 

私の吹くサンメリーダの梟

 

私が吹いたマイナーソロとクラシック・メドレー。 

 

 

私の吹くポピュラーメドレーみたいなソロです。

 

 

私のヘタな、マイナーハーモニカ・ソロ見たいなモノ。

 

 

 

私のブルースソロ1。

 

 

私のブルースソロ2。

 

 

私が吹くハードバップ風ブルースソロ。

 

 

 

 

 

浅見安二郎さんは、ブルースハープの伝道師として、普段は埼玉を中心に演奏活動を行って居ますが、今回スコットホールギャラリーでの演奏が叶いました。ギターの高橋新吾さんに支えられながらブルースハープの音色が会場に響きわたります。

 

 

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「ブルースハープ」と言う普段あまり聞きなれないこの楽器は、10つ穴のハーモニカの事を言います。司会は装丁家の桂川潤さんが担当、この日も多くの人がはじめてこの楽器の事を知る様だったので、基本的な質問をなげかけながらのレクチャーコンサートと言う形になりました。

 

印象に残ったのは、この楽器は「吹く」と言うよりも「吸う」楽器であると言う事を。10個の穴しか空いて居ないのにどうしてそんなに幾つもの音が出るのかと言う質問に、浅見さんがそう答えて居ました。ブルースハープは片手に収まるくらいのコンパクトな楽器で、とても小さいため、その様に吸ったり吹いたりする事によって音を変えて居るのです。ブルースハープ自体の種類も沢山あります、演奏曲の音階によって使い分けて居たのも印象的でした。また、舌で穴のふさぎ方を調整し、リズムを打ちながらメロディーを同時に奏でると言う技には、本当に圧巻!ブルースハープの奥深さを堪能できた1時間半になりました。

 

参加者の皆さんからは、

 

「選曲が良く、とても楽しめました。ハーモニカのレクチャーもとても興味深く、改めて音色の多様性を実感しました。寒い日でしたが、心がとても温まりました。ギターも素敵でした。」

 

「楽しい内容のコンサートでした!また開催して欲しいです。会場もレンガ作りの歴史ある所でよかったです。」

 

「すばらしい音響の中ですばらしいハープの音色!」

 

とのお声を寄せて居ました。

 

私が浅見さん見たく吹ける様になるのは何時の事になるのやら、全然格が違いすぎますよ.....。   (● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾

 

 

浅見安二郎ブルースハーモニカ「リベルタンゴ」Libertango 

 

 

浅見安二郎ブルースハーモニカ「夜のタンゴ」Tango Notturno

 

 

この会場で出来たからこそ、演奏が一層際立ったのではないかと思うと、とても良かったと感じます。最近発売されたばかりの浅見さんのCD『リベルタンゴ』も必聴です!コンサートにお越しになれなかった方はぜひチェックして見て下さい。

 

松田幸一(ブルースハープ) 

 

 

「松田幸一」

 

通称アリさん。日本の10ホールズハーモニカ界のパイオニアであり、プロで活躍するハーピストの中でもキャリア、実力共に日本を代表するプレーヤー。

1972年 アーリータイムス・ストリングスバンドに参加。1973年 泉谷しげるに誘われラストショウを結成。以後、ニューミュージック胎動期にハーモニカプレイヤーとして松任谷由実・大瀧詠一など数々のレコーディングに参加。アリス、イルカ、中島みゆきなどのツアーの後、単独のソロ活動に入る。

1989年 世界的なファッションデザイナー山本耀司氏のヨウジヤマモト・バンドに参加し、翌年パリコレの音楽を担当。翌年CD化。1996年、ソロアルバム「ボイス・オブ・ハーモニカ」、ライブ盤「シルクタッチ」を発表。 2001年 Niall O'Lealy Irish Dancersのジャパンツアーに参加。2002年「ハーモニカ・パラダイス」を発表。

現在まで、小泉今日子、福山雅治、石川さゆりなど多くのミュージシャンとセッション活動すると共に、NHK-BS2 「ふるさとの鉄道」の音楽を担当するなど活躍中。
心に染込むブルースハープをお楽しみください♪

 

松田幸一&古橋一晃 「ミケランジェロ」 

我が心のジョージア (Georgia On My Mind) "Natsuki & Chika Wedding Live Party!!" 

 

 

妹尾隆一郎

 

 

 

妹尾隆一郎&塩次伸二_06_I’m still in Love with You_2007.2.17 

 

If it Ain't Me _Weeping Harp Senoh & Blues Busters_05 

 

 

Break it Up _Weeping Harp Senoh & Blues Busters_01

 

 

Blue & Lonesome _Weeping Harp Senoh & Blues Busters_03

 

 

WagamamaCD2Live_01Summer Time_Weeping Harp Senoh 

 

 

 

 

 

 

 

GACKT君が言って居たけど。「僕は「自分の勝手でボランティアやってるんだ。だから有難うと言われればそうと言うし。馬鹿やろうと言われてもそうですか。」としか言わない」と言う。これは奥が深い言葉です。他人の為に何かやってやっても。そのやって貰った人からよく思われない事もあるし。見て居る赤の他人からもよく思われない。だからこのblogもそう言わせて貰います。「このblogは私の勝手でやって居るのです。喜んでくれる人が居ればそうと言うし。お前は馬鹿だと言われたらそうですか?自分の勝手ですから....。」とこれからはそう思う事にしました。彼に感謝です。。。今回は此処までで記事は終わりとします。此処まで読んでくれてありがとう。また更新出来たら逢いましょうね。。。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

私が好きで応援して居る。青木志貴ちゃんです。彼女は声優で。舞台俳優で。YouTuberです....。

 

 

 

 

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「感慨」(ヴァイオレット・エヴァーガーデンASMV動画) 

 

 

 

 

 

お知らせです・・・・・。

 

「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」

が日本テレビの「金曜ロードショー」で、11月25日の

21時から40分拡大公開版で、23時34分まで

放映されます。勿論ノーカットです・・・・・。

 

 

これで劇場版を見られなかった方も要約

見られますね、、

まだ見て居ない方は是非見て下さいね、、

良い話ですよ・・・・・・。♪( ´▽`)

 

 

 

感動的な名シーンです。観て見て下さいね。。。。

 


 

ラストシーンです。ご覧下さいね。。。。

 

 


 

 

 

 

 

『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のBlu-rayが、、
今発売中です。DVDもあるのですが、、
うまく表示を見なければ表示されません・・・・・。

通常盤で、DVDなら6千8百円ぐらいで、、
Blu-rayなら通常盤で7千8百円ぐらいです。

私は特別版の1万2千幾らかのBlu-rayを予約購入しました、、
本編2時間20分に特別映像2時間20分、、、合計4時間40分の映像です。
そして、ポスター。ブックレット。少佐(大佐)へのバイオレットの直筆
あのタイプライターで打った手紙が入って居ます(笑)

此処に紹介記事と価格を紹介して居る店のアドレスを貼って置きます

クリックでページに飛ぶと思いますが。もし飛ばなかったら

コピペで検索してみて下さいね......。

 

 

https://www.yodobashi.com/product/100000009003417746/

 

 

 

通常版でも、舞台挨拶とかオーディオ・コメンタリーは入って居る
見たいですよ。そしてBlu-ray特別版には晩佳奈の小説が入って
居て、石立太一監督と脚本の吉田玲子とイラストレーターで作画監督の、
高瀬亜貴子さんの対談映像もあるそうですよ、、、


それから、北米盤のBlu-rayでなら、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の
TVシリーズ全13話とOVA収録のBlu-ray2枚組のBOXが8千9百
幾らかで購入出来ます。私は一昨日メルカリで購入しましたが、、、
楽天やらAmazonで売っていますよ。今日届いたので今からまた観る処です。。

 

 

https://search.rakuten.co.jp/search/mall/ヴァイオレット・エヴァーガーデン+北米版/

 

 



この北米盤とはアメリカ盤のBlu-rayでして、、
日本のアニメがとにかく安い!!日本が如何に高いかですよね。
出崎統の「スパース・コブラ」全24話とか「宝島」
「あしたのジョー」「カウボーイ・ビパップ」が全話のBOXで

一万円切るんですから、、
 

しかも日本のブルーレイ・レコーダーで再生可能です。
日本語字幕と英語字幕が出ますが、、プレイヤー側で消す
事も出来ますよ。

私は萬屋錦之介が中村錦之助時代の代表作「宮本武蔵」の
DVDを持って居るのですが、、DVDプレイヤーはアメリカと
リージョン・コードが違う為に。確かアメリカ、カナダ、フランスが
リージョン1かな?日本と香港、台湾がリージョンが2なんですよ、、

だから、私はリージョンフリー・プレイヤーを1台所有しています。。。
これAmazonで5千円ぐらいで購入出来ます。私のモノは、、
フランスとかスウェーデン、イタリア、イギリスのも再生出来ます。
今から16年ぐらい前に購入しましたが、いまだに現役で動いております。

五社英雄監督作品の三島由紀夫。石原裕次郎。仲代達也。勝新太郎共演の、
幕末ものの時代劇「人斬り」のフランス盤を持って居ます。DVDファンタジュウムと

言うアメリカの輸入のDVDを扱って居る店から購入しましたが、、
この店は親切で、映画とかアニメの題名を言うとスタッフが日本人だから、
探してメールくれるんですよ。しかも3日間ぐらいで、だからお世話になって
居ますよ。でも最近はAmazonで殆んど買えますからね〜〜!!( ´Д`)y━・〜

https://www.fantasium.com/
 

 

と言う訳で、もし購入したかったら。そう言った方法もあると言う事です。
知らない方も居られるかと思い書きました。お知らせまで........。

 

 

昨日は訪問看護師が私の様子を見に来た。話して居て。私が「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の劇場版が発売になったと言ったら。「早い発売ですね」と驚いて居た。私は他の女性にも知らせたが。その女性は。私、同様に予約をAmazonに入れて居たが。。。。。処で北米盤の「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」TVシリーズ、全14話収録の2枚組のBlu-rayを購入したのだが、昨日届いた。早速、1枚の全話の半分の7話を通して観て見た。いや〜。Blu-rayは矢張り画質がいいですね。此の作品は背景美術が凄くいい作品だから。見て居て、登場人物のキャラクターの絵柄も含めて素晴らしいクオリティーですね。しかし此の作品の後に、精神障害者によって、36名のアニメーターやら作画監督。色指定の方だとかが此の京都アニメーションの建物にガソリンを巻かれて火を点けられて殺されて仕舞って居ます。私も精神障害者だ。だが、私はその男は断じて許す事は出来ない。だからそのせいもあってか劇場版は哀しい話になって居ますよ。昨日来た看護師さんは、「私は、なんか泣けなかった?声があまり気に食わなかった。もう少し、大人びた声がよかったのに、、」と言って居た。何故だろうかなぁ、、

 

此処からは劇場版のラストを手短に話すが。ヴァイオレットは戦争孤児で軍人だったが。ギルべルト少佐の温かい保護のもとで14歳の少女から軍人で、その後。戦後は郵便社で自動手記人形サービス(何故そう言うかと言うと。医者の奥さんだった、小説家がある時から眼が見えなくなり。その医者は彼女用に発明したタイプライターを自動手記人形と名付けたのだ)そしてその手紙代筆業を通称ドールと呼んだ。ヴァイオレットは18歳の女の子になり。少佐が最後に行った言葉「心から、愛してる」と言う言葉が彼女には、意味が解らずに居て....。それはそうだ物心ついた時から戦闘人形として人を殺める事しか知らず。読み書きも出来なかったのですから。それをギルベルト少佐に教えられて、最後の戦争での作戦で、ギルベルト少佐は左目を撃ち抜かれ。彼女は両腕を無くして仕舞った。そして離れ離れになるが彼女は「愛してる」の意味が知りたくてドールの仕事を始めたのだ。劇場版はしかし救いもある。なんと死んだと思われて居た少佐が生きて居たのだ。彼は自分の贖罪を背負い。勝手自分が村人を殺した村で、罪の償いに畑仕事をして生きて居たのだ。

 

彼女は郵便社の社長のホッギンズと共に会いに行くが。何故か彼は彼女に会おうとはしない。彼女は雨が降り頻る中。少佐の家の前で「会えるまで待ちます」と言い張るが。少佐は黙って会おうとはしない。居てもたっても居られなくなった彼女は。ホッジンズに少佐宛の手紙を託し永遠の別れを告げると船に乗り込む。しかし。ホッジンズがギルべルトに言う「彼女はお前をずうっと待って居たんだぞ!!」するとギルベルトは言う「彼女の両腕を無くさせ。彼女を不幸にしたのはこの私なんだ!!」そして言う「出て行ってくれ!!」ホッジンズは「この大バカヤロー!!」と怒鳴って彼女からの手紙を彼の机の上に置いて去って行く。そこに彼の兄のディートフリートが現れて机の上に置いてある手紙を彼に渡して言う。「手紙を読んで見ろ.....。」彼女がタイプした手紙には「少佐、今まで有難う御座いました。字を教えて下さって有難う御座いました。話し言葉を教えて下さって有難う御座いました。名前をつけてくれて有難う御座いました。少佐は私に生きる術を教えて下さいました。本当に有難う御座いました。少佐から言われた"愛してる”と言う言葉が私の道標になりました。心から感謝します....。愛してるも少しは解る様になったのです。だから私も少佐に言います「愛しています」」ギルベルトは大粒の涙を浮かべて。肩を震わせた、

 

彼の兄のディートフリードが静かに言う「人はなかなか素直にはなれないものだな。ブーゲンビリヤ家は俺が継ぐ。お前はもう自由になれ。行ってやれ。彼女にはお前が必要だ・・・・。」そう言われるとギルべルトは、走って海辺に行き彼女の船を追いかけて叫ぶ「ヴァイオレット!!」その声を聞いた彼女は甲板で聞いて居たが。なんと船から海へ飛び込んで、二人は夕焼けの中、岸辺で再会し向き合う。彼は泣き濡れるヴァイオレットに言う「俺は君が思って居た上官でも何でもなかった。俺は君の両腕を無くさせ義手にして苦しめた悪人だ、、」しかしバイオレットは首を横に振り「しょう、、しょう、、」と少佐の名を呼ぼうとするが声が出ない。思えば14歳で軍隊の戦闘員になってから。18歳までろくに物事を知らなかった彼女が。此処まで成長したのだった。

 

最後は泣き崩れる彼女をギルべルトは優しく抱きしめるのだった。まあ、最後の方を話すとこんなものでしょうか。私は此の作品は往年のすれ違いラブストーリー「君の名は」(アニメでは無く岸恵子と佐田啓二の映画)とか「ひまわり」(ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ)の系列の映画だと思った。そしてその訪問看護師さんは此の作品では泣けずに「火垂るの墓」が一番いいと言って居たが・・・・・。確かにあれは外人でさえ嗚咽が止まらなくなって仕舞ったアニメ映画だ。この人は「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」が気に入らなかったのだろうけど。私は「鬼滅の刃」がいまいち、よく解らなかったが。兄弟愛と友情は解るのだが。多分。あの絵柄が好きになれなかったのだろうと思う。まあ、人それぞれ好みは変わるのだから誰が正しいと言う訳ではない。ただ私は此の映画を見て居ると泣けて来るのですよ。確かに嗚咽したかったら「火垂るの墓」を見ればいい。あれはどんな人でも泣ける作品です。高畑勲監督作品で唯一無二の大傑作だ。

 

 

 

 

1週間ほど前から要約、TSUTAYA・DISCASから「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のTVアニメシリーズが、、送られてくる様になった。もうレンタルで申し込んでから1ヶ月近く待った。そして1週間前に2枚とそれから2日して、もう2枚が届いた。1枚2話入りで時間にして50分くらいか?1話あたりテレビ・アニメだから25分だろうと思う。だから続けて4枚程見て。その日のうちに返却し、また翌日送られて来たので2枚続けて観た。アニメ自体は素晴らしいクオリティーでストーリー、背景、キャラクターの絵とも。絵画を思わせる様な美しさだ。しかし、私は初めの方にヴァイオレットが孤児で。ディートフリート大佐に拾われて戦闘少女として働かされてから、ギルベルト少佐に引き渡される処から始まり。戦争で彼女が両腕を失い、少佐が眼を撃たれて、片腕を失うシーンが出てくるのだろうと思って居たから、いきなり野戦病院から始まり。自動手記人形サービス会社のホッジンズ社長(元中将)が迎えに来る処から始まったので、「あれ?、」と思ったのだが。原作者の晩佳奈さんの小説と言うかプロットを、それをヴァイオレット寄りにアニメにして居るらしく。まるで1話1話、小説を読んで居るが如きに思えるのですよ。

 

1話が25分足らずなのに完成度が物凄く高いのです。私はこの作品は確か東京MXTVで、2年前の放映時に数話だけ観て居たのですよね。最近のアニメは深夜枠での放送だから。起きて居た時にチャンネル捻ったらやって居て。何か面白そうだなと思って居て、今日は妻と娘に先立たれて酒浸りになって居る作家の処に、ヴァイオレットがタイプライターを持ってやって来て。その作家が、子供に話を聞かせるつもりで考えて居た小説を、2人で考えてタイプするのだけども。子供が「お父さん、あたしがこの池の上歩いて見せてあげるね」と言った事を思い出して言うと。ヴァイオレットがその子が差して居た日傘を差して。その子が言って居た様に水の上を3歩ぐらい跳び跳ねると。その作家にはその様子が我が子がまるで池の上を歩いて居る様に思えて泣くのですが。観て居て此方も泣けて来ました。そして毎回話の終わりに例えば「愛する人はあなたをずぅ〜と見守って居る」とか言葉が出るのですよね。美輪明宏が「今は優しさの時代に入った」と数年前に行って居たけど。そうなんですよね。声優人たち。特に主人公の澄んで居て。しかし純粋だが純情。しかし力強い主人公ヴァイオレットの声を担当した。石川由依さんの声がいいのですよね。絵柄にぴったりなのですよ。

 

 

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▲石川由依さんによってヴァイオレットに命が吹き込まれた。

 

 

 

5分で分かるアニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』第1回  

 

5分で分かるアニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』第2回  

 

5分で分かるアニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』第3回  

 

ヴァイオレットエヴァーガーデン 少佐 愛してる    

アニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』PV第4弾  

 

小説のダイジェスト・ストーリーの朗読......。1話につき2分程度です。是非聴いて見て下さい。

 

【Story】ヴァイオレット・エヴァーガーデン 第1話について  

 

【Story】ヴァイオレット・エヴァーガーデン 第2話について  

 

【Story】ヴァイオレット・エヴァーガーデン 第3話について  

 

【Story】ヴァイオレット・エヴァーガーデン 第4話について  

 

【Story】ヴァイオレット・エヴァーガーデン 第5話について  

 

【Story】ヴァイオレット・エヴァーガーデン 第6話について  

 

 

 

 

【Story】ヴァイオレット・エヴァーガーデン 第8話について  

 

 

 

【Story】ヴァイオレット・エヴァーガーデン 第10話について  

 

【Story】ヴァイオレット・エヴァーガーデン 第11話について  

 

【Story】ヴァイオレット・エヴァーガーデン 第12話について  

 

【Story】ヴァイオレット・エヴァーガーデン 第13話について  

 

 

 

そして2枚目の最後はようやく戦争の話に突入して、少佐が撃たれる処で終わって居た。明後日の5枚目と6枚目で戦争中の話は明らかになるだろうと思っていた。そして最後の7枚目。最後まで観た。始めはこのTVシリーズは全話でセル盤は全部で4枚です。レンタル盤は7枚だけども、始めTVシリーズは4枚全て、購入しようと思ったけど如何にせん高い。Blu-rayで1枚8千幾らかだ。DVDでも7千幾らかはする高すぎて買えない。だからTSUTAYAからレンタルで見て置いて。そのうちCSのアニメチャンネルで再放送があると思うので、その時に録画しようと思って居た。そうこうして居たら。劇場版のBlu-rayの発売が告知された。発売は初め8月4日と言って居たが。諸々の関係で10月に発売された。買ったが、矢張り、1万位はします。予約はAmazonに入れてある。まあ、販売元が京アニだから。お金は京アニの運用資金になるだろうからいいけどね。金が無い私に取っては高額で、とてもでは無いがTVシリーズは買えないと思って居た。だが輸入盤の北米盤なら全話13話で2枚組のBlu-rayで購入できる事が解った。なんと13話全話で7千円だった。だから私は購入した。今日には届くと思う。届くのが楽しみです.....。この作品はNetFelixでも観られますよ。。。。

 

 

KAエスマ文庫刊『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』がシリーズ累計50万部を突破した。本作は第5回京都アニメーション大賞「大賞」受賞作で、幾多の戦場を武器として渡り歩いて来た少女が、手紙の代筆業「自動手記人形」の仕事をこなしながら「あいしてる」の言葉の意味を探す成長の物語。原作小説は全4巻で発売されており、2020年9月に公開された『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は興行収入26.3億円を突破、観客動員数も164万人を超える大ヒットを記録している。2018年に放送されたTVアニメで大きな人気を獲得しており、晴れて公開となった劇場版で一層の注目を集めて居る。小説を読んだ感想はアニメが最高によかったので原作に手を出した形です。まず違うのは視点がヴァイオレットではなくクライアント側と言う事。アニメでは抑えめに描かれたクライアントの事情や心理、彼らから見たヴァイオレットと言うドールの印象や心情が描かれて居ます。

 

どこにでも居る誰かの生々しく温かい心が大きな振幅で描かれて居るので共感したり感情移入したりはしやすいと思います。アニメを見たあとだと、あちらでは描かれて居たヴァイオレットの事情や葛藤、クライアントに抱いた想いが思い出されて来ます。クライアント、主人公にとってのわき役や傍観者と言う立場でヴァイオレットに(本当の主人公に)共感できるのは本を読む上で珍しい体験でした。原作はあくまでも「ヴァイオレト・エヴァーガーデン」と言う特殊な運命に生きる女性について、彼女と関わる人々の思いと合わせながら描かれて居る感じです。なので、アニメの様なイメージで読むと違和感を覚えるかも知れませんね。戦闘描写も多いですし。ライトノベルを読んだのは20年振りになりますが、物語にぐいぐい引き込まれました。著者の方はまるで見て来た様に情景を描きますね。著作者でアニメ原作者の晩佳奈さんは才能に富んだ方だと思いましたよ。

 

 20世紀の妖精と言われた女優。「リリアン・ギッシュ」..... 。

Lillian Gish 

 

A Tribute to Lillian Gish  

 

唯一の「京アニ大賞」受賞作、小説『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に宿る“言葉の力”と言う評論文がネット上にあったので紹介します。。。。

文=杉本穂高

 

唯一の「京アニ大賞」受賞作、小説『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に宿る“言葉の力”

 

「自動手記人形」という人の心のエキスパート

 

上述したが、本書は、京都アニメーション大賞唯一の受賞作である。毎年開催され、10回もの歴史を重ねながら、大賞受賞作が1本のみと言うのは異例の事だろう。どれだけ厳しい審査基準なのか解らないが、京都アニメーションの公式サイトによると、大賞受賞作品は必ずアニメ化するのだと言う。少なくとも、応募段階で確実にアニメ化したいと思わせるほどの作品ではなければ──それも日本最高のアニメスタジオである京都アニメーションの基準で──大賞受賞は出来無いのだろう。

 

そんな本書を最も特徴づけて居るのは、手紙の代筆を請け負う自動手記人形というユニークな職業のあり方だろう。人の心に寄り添い、想いを汲み取り、美しい手紙をしたためる。作品世界のモデルと思われる20世紀初頭の欧州の、当時の職業婦人の花形だったタイピストのように、タイプライターを主な仕事道具とし、ただの記録ではなく、人の心の機微をすくい取る技量を求められる。自動手記人形は、文字通りの手紙の代筆ではない、本人も気づかない心の深奥を探り当て、差出人と送り先の心を結ぶ言葉を綴る能力が必要なのだ。

 

ヴァイオレットの同僚、カトレアの仕事風景を著者はこんな風に描写する。

 音楽には始まりと終わりがある。印象的に、もしくは優しく朗らかに、奏でる曲によってそれは違うが始まりから中盤までどんどん盛り上げていく。タイプライターの音はピアノ。万年筆の音はヴァイオリン。そして最後はシンバルの音が鳴って終わるのだ。

 

「・・・・・・どう?」

 

 出来上がった手紙は、生き物になっている。言葉一音一音が踊りだす、インクの匂いに人の息吹を感じる。手紙が物語になる。(外伝 P207)

手紙は生き物であることが重要だ。差出人の物語、つまり人生の息吹が宿るように生き生きと感じられるものでなくてはならない。自動手記人形とは言葉で人の人生を伝える「心のエキスパート」なのだ。

非リアルな少女のリアルな葛藤

物語は、代筆業を依頼したある小説家の元に、ヴァイオレットが派遣される処から始まる。TVアニメを観た方ならご存知だろうが、小説版とTVアニメ版は構成が異なる。時系列に沿ってヴァイオレットが自動手記人形となる前から始まり、彼女の成長にスポットを当てているアニメ版に対し、小説版は依頼者と同じ目線で、美しい代筆屋の少女との邂逅を読者に体験させる様に始まる。各話短編集の様な構成で綴られた本書は、毎回異なる依頼者とヴァイオレットの出会いが描かれるが、毎度ファーストコンタクトの折、ヴァイオレットの外見の美しさを丹念に描写する。

 物語から飛び出て来た様な美しさの金髪碧眼の女は、愛想笑いを浮かべる事もなく玲瓏な声で言った。

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデンと言う女はまさに人形の如く美しく静な佇まいをして居た。金糸の睫毛に覆われた青い瞳は海の底の輝き、乳白色の肌に浮かぶ桜色の頬、艶やかにルージュがひかれた唇。

 

どこをとっても欠ける事の無い、満月のような美を持つ女。

 瞬きさえしなければ、ただの鑑賞物になるだろう。(上巻 P17)

依頼者の小説家オスカーはあまりの完成されたヴァイオレットの美しさに、ヴァイオレットの事をアンドロイドだと信じ込んで居た。読者にも途中まで彼女が人間であるのか、人形であるのか明かさずに物語を展開してゆく。本書がKAエスマ文庫という、半ばライトノベルに近い体裁のレーベルから出版されて居る事もあり、20世紀初頭の欧州を思わせる世界観で架空のオーバーテクノロジーを描いた作品なのかと思わせる始まり方をする。

 

ヴァイオレットの第一印象はどの依頼者もおしなべて「美しすぎてリアリティがない」と言うものだ。そんな精巧な人形のような彼女が、依頼者の心に寄り添い、悩み、考え、美しい言葉を紡いでゆく。そのやり取りを通じて、リアリティのない、透き通った透明のような存在に思われた彼女の輪郭が立ち昇ってくる。人の心をどうすれば深く知ることが出来るのか、喪失をどの様に埋め合わせたらよいのかと葛藤する生身の人間でる事が読み進める程に解るのだ。本書は、ライトノベル的非リアルと人間の本質のリアルにせまる文学のせめぎあいの緊張感の中に存在し、その立ち位置ならではの独特の読後感がある。

 

 

届かなくていい手紙なんてない

本書は、美しさを単純に称揚すべきものとは扱わない。しばしば、それは残酷さと併存して語られ、時には残酷さを覆い隠すものとして描かれる。戦争で多くの人を手に掛けた「兵器」である少女が美しい手紙を書くと言う設定自体にも潜むその両立は、本書の至る処で顔を出す。小説家の愛娘が死んだ日に「とても天気が良かった」りする。世界は個人の死を悼む事なく美しく朗らかであると言う、残酷な自然の摂理。

 

自然の摂理といえば、雪の描写には目を見張るものがある。アニメ化されていないエピソード「囚人と自動手記人形」の冒頭、死体の山に雪が降り積もるシーン。

とある戦場ではひとりの少女が空を見つめて居た。

ゆっくりと落ちながら浮遊する白く冷たい物質について、少女は傍らにいた主に尋ねた。

 

これはなんですか、と。

「雪だ、ヴァイオレット」

 

主は硝煙の香りが染み込み煤けた手袋を脱ぎ、彼女の目前に手を開く。ひとひらの雪が舞い降りてすぐに溶けた。その光景の摩訶不思議さに少女の唇から吐息が漏れた。主の手に降りそそいでは溶けて行くその物質の名を初めて口にしてみる。

 

「ゆき」

 

言葉を覚えたての幼児にも似た発言をする。

 

「そうだ、雪だ」

「ゆきは・・・・・・とけるものと、とけないものがありますか?」

 

 少女はまだ握ったままだった武器で地面に転がる死体を示した。物言わぬ躯には既に粉砂糖をまぶすが如く雪が降り積もっている。(上巻 P192)

汚れない純白の雪は、ぬくもりある生者の肌には積もらないが、体温を失った死体には積もり、美しい雪化粧を作り出す。その様を見たヴァイオレットは、「雪は積もると他の色を消してしまうのですね」と言い放つ。美しい純白の雪が、戦場の惨劇を覆い尽くしてゆく。死体を覆い隠す純白の雪は、美しさの裏に消せない過去を持つヴァイオレットの事でもあるかも知れない。

雪にまつわる死のイメージは、転じて、届けられない手紙の束にそのイメージを重ねる。ギルベルトに向けてヴァイオレットが書いた、出す宛ての無い手紙の山をこの様に著者は描写する。

部屋を訪ねたホッジンズが見たのは床に散らばる手紙の中で座り込んでいるヴァイオレットだった。その数は一通や二通ではない。数十通の手紙が死体の如く静に積み重なっている。死んだ思いが、まるでしんしんと降り続ける雪のように溶ける事なく、ただ存在して居るのだ。(下巻 P88)

後に自動手記人形となるヴァイオレットは、依頼者に「届かなくていい手紙なんてない」と自らに言い聞かせる様に言う。病で死にゆく母が幼い娘に手紙を残し、息を引き取る寸前の若い青年兵が最後の力を振りしぼって愛する者への手紙を綴るのをヴァイオレットは手助けする。肉体が滅んだとしても、想いが手紙として届けられるなら、その想いだけは生き続ける。せめて、想いは死なせたくない、だから「届かなくていい手紙なんてない」とヴァイオレットは言う。

失われた者は決して戻る事は無い。それでもその想いが、その言葉が、残された人々に前を向かせてくれる。それが言葉の力なのだ。「あいしてる」という言葉が、どれだけ人の生きる糧となれるのか、「うつくしい」という言葉が本当はどれだけ美しいのか、本書を読んで筆者は知った。インターネットの言葉の洪水に飲まれそうになった時、筆者はもう一度本書を手に取るだろう、言葉の力を思い出すために。

 

メイン画像:暁佳奈『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 上巻』(KAエスマ文庫)

 

玲瓏(れいろう)と言う言葉がある。小説『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の主人公ヴァイオレットの声を描写する言葉として繰り返し登場する。意味は「玉などが透き通る様に美しいさま。また、音声の澄んで響くさま」(デジタル大辞泉より)。

本書の主人公を描写するのにふさわしい単語だ。その声は透き通るほどに美しい。しかし、透き通るということは裏返せば色がないと言う事でもあるかもしれない。それは無垢とも言えるし、何も知らないとも言える。

 

暁佳奈の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、手紙の代筆業に就く少女の活躍を通して、言葉が人々の心を再生させてゆき、主人公が人の心と言葉の複雑さを知ってゆく模様を短編集のように綴った作品だ。これまでに全3巻(上巻・下巻・外伝)が刊行されて居る。どこかの島の孤児であり、だれかの命令を聞くしか出来ない、心を持たぬ「道具」のような存在だったその少女は、戦争に駆り出され「兵器」となり、多くの生命を奪う。唯一心を拓いた相手、ギルベルト少佐の最後の命令「生きろ」を守り、同じくギルベルトが発した「あいしてる」の意味を知るため、自動手記人形と呼ばれる手紙の代筆業に従事し、言葉とともに心の豊かさを身に着けて行く。

 

アニメーション制作会社、京都アニメーションが主催する「京都アニメーション大賞」全10回の中で唯一の大賞受賞作であり、2018年には同スタジオによってTVアニメ化された。その映像美と瑞々しい物語は大きな感動を呼び、2019年と2020年に2本の劇場版の公開が予定され同年公開された。言葉が軽々しく氾濫する現代社会に対して、言葉の大切を切々と伝え、深く心に染み込んでくる作品だ。

 

■ライター杉本穂高さんの記事から抜粋です。。。
神奈川県厚木市のミニシアター「アミューあつぎ映画.comシネマ」の元支配人。ブログ:「Film Goes With Net」書いてます。他ハフィントン・ポストなどでも映画評を執筆中。