今日は「父の日」
子供の頃、「母の日」は例の赤いカーネイションで記憶にあるが、
当時「父の日」も学校では教えていたのだろうかな~ 記憶にない。
カーネイションと言えば・・・
いつのことか年次は忘れたが、坂本九さんがTVの中でこう言っていた。
「僕が訪問した小学校のクラスに一人 白いカーネイション を持った女の子がいました。
ああ、この子はお母さんがいなんだな~ と思ったら涙が出てきました」
と、コメントしながら泣いていたシーンを覚えている。
これって、今なら 「差別」であり、「イジメ」の要因としてバッシングされるだろう。
私のまわりでも「片親(これも差別用語か?)」の子供はけっこういたが、
それを 「なにかのネタ」にするようなことは一切なかったし、あり得なかった。
参観日に誰も来ない、あるいは祖父母が代わりに来ることも多かったし、
そうして いろいろな家庭があることや、いろいろな人たちが周りにいることを
自然に学習していったのだと思う。
距離で言えば、友達の「家」も「台所」も「おかあさん」も「兄弟」も須らく知っていた。
オープンであるとか、金持ちであるとか、そんな次元のことではなく、付き合いのカタチ、
関係の作り方がそれで「あたりまえ」だった時代なのだ。
親のことを話す、兄弟のことを話す、親戚や田舎のことを話す・・・
自分の情報を伝えることで「理解し合う」「思いやる」心が育まれてきたのだ。
白いカーネイションを堂々と持つ・・・
これで、その子の情報は周知となり、そこから周りの子たちは「考えることを始める」のだろう。
(おかあさんの話題はよそう) かもしれないし、
(うちのおかあさんのごはんを一緒に食べよう) かもしれない、
(おとうさんだけの暮らしについて聞いてみたいな) かもしれない・・・
個人情報を受けたことから始まる情操教育・学習は無限であるはずだ。
「だって、みんな持ってるもん」
「みんな やってるよ~」
子供の常套句だったこの 「みんな」
現代ではこの 「みんな」の数(サンプル数)は多分膨大だろう。
しかしバーチャルでの「膨大」であって、実体験に基づいた「みんな」ではない。
個人情報の秘守義務が「法律」にまで足を突っ込んでしまった社会になった。
マナーやモラルを飛び越えて一気に「ルール化」するという横着さだ。
ACがいくら吠えてももう遅いだろう。
「オトナより先に悪くなるコドモはいない」
この定理は明白だ。
家庭でも学校でも「ルール」はプリントするが、なぜそれができたのかを説明する
義務を放棄している。
記念日が市民権を持って存在する以上、立場や環境によって「その日」の在り方を
改めて考える「日」であってもいいのではないか。
旗印もお題目もできているんだから、この日くらいは「オトナ」から「大人」になりましょう!