「漢字と日本人」高島俊男著(文春新書)の中に次の一文があった。
---漢字をよく知っている人は漢字の多い文章を書く、と思っている人があるようだが、
それは逆である。漢字の多い文章を書くのは、無知な、無教養な人である。
これは、第一に、かなの多い文章を書くと人にバカにされるんじゃなかろうかと
不安を感ずるからである。第二に、漢字をいっぱいつかった文章を書くと人が
一目おいてくれるんじゃないかというあさはかな虚栄ゆえである。
第三に、日本語の本体は漢字で、どんな日本語でもすべて漢字があり漢字で書くのが
ほんとうだと信じこんでいる無知ゆえである。---
さて、
書かれていることの是非について云々するために紹介したのではない。
上の文章における「かな」の使い方について書いてみたいと思ったのだ。
最初に読んでいて「違和感」を覚えたのがこの(漢字じゃなくて かな を使っているんだ)という
視覚的なところからだった。
「漢字をいっぱいつかった」の 「つかった」
「一目おいてくれる」の 「おいて」
「ほんとうだと信じこんでいる」の 「ほんとう」 および 「こんでいる」
これらが読んでいて(私のリズムに)ひっかかるところだった。
この「漢字にするか かな でいくか」の判断は確かに書き手個人の「好み」である。
はずだった。ワープロが出現するまではね。
今や、個人の「好み」ではなく機械の「変換」が優先しているのかも知れない。
なぜなら、上の例文を打っていると勝手に漢字が選択され、かな にするためには
さらなる「キー打ち」の手間がひとつ増えるという現実があるのだ。
「しんじこんでいる」と打って変換すると「信じ込んでいる」が一発で出るでしょう?
このように、現在では「手書き」すなわち「書き手の日本語知識・教養」が見える文章に
出会える機会はほとんどないと言えます。字面も含めてね。
しかし、個人個人が自分の好きな「文章体」を持っているはずですね。
それは、助詞の使い方とか、漢字とかなの使い方などいろいろな要素がありますが、
それを決めるいちばんの「要因」「きっかけ」はいったい何なのだろうか???
というのが、この本を読んでのいちばんの「感想」でありました。
ブログを拝見していても、また、活字を読んでいても、結局のところ「気に入る」のは
この「文章体」が発する視覚的なリズムにあると私は個人的に思っています。
正誤うんぬん より、教養うんぬん よりも、文の持つリズム・・・これが好きなんだなあ。
蛇足になりますが、この本、おすすめです。