突然の死が幼い子供たちのすぐ横にある。最近の2件から・・・
ひとつは、公園の遊具「うんてい」の隙間から降りようとした児童の事故死。
足から降り、身体を抜き、顔を抜いた、ここまではよかった。が・・・
あろうことか防災用ヘルメットが2本の鉄棒の間を抜けることができず
あごひもで首をしめられた宙ぶらりんの窒息死に至ったものだ。
両手でぶら下がった状態で首を回すことができれば、あるいは抜けたのか。
私の近所で見かける児童用ヘルメットには2種類のカタチがある。
ひとつはごく普通の丸型、もうひとつはサイクリングなどの競技で見るような
流線型で前方に尖ったカタチをしている。
この事故の児童がどっちだったかは定かでないが、いずれにしても(あっ)と
気づいた時に身体を持ち上げて「うんてい」の上に戻る力がないことは明らかだ。
力尽きてぶら下がる以外に術がなかった瞬間を考えると、なんとも言いようがない。
これでまた、遊具が「危険物」として扱われるのだろう。
対面座席式の箱型ブランコの隙間に挟まった事故のときもそうだった。
ひとつは、母親がトイレに行ったわずか数分の間に襲われ命を奪われた事件。
小1の男児に持たせていたGPSケータイのストラップが凶器になったらしい。
我が子に持たせたケータイのストラップが絞殺の道具になるなど、親も
ケータイ業者も世間も微塵ほどの想像もしない。それが当たり前だ。
当たり前の安全のすぐ隣に当たり前のように「死」があると考えなければ
いけない世の中になってしまったのだろうか・・・
この事件でストラップの素材やケータイの持ち方が一部で議論されるのだろう。
さらに、公共トイレの構造から設置場所の条件まで発展するかもしれない。
しかし、本当の問題は別にあるのではないか、という気がしてならない。
なぜこんなに「死」が身近にあるのだろうか。
天災の死と人災の死を同列で考えているのではないか、と思わせるような
報道・世相観があふれているようだ。
99.9%が想像すらしなかった「死」が現実として毎日どこかで起きている。
命の重さを教えることはそんなにも大変なことなのだろうか?
ひとがひとであることの意味を教えるのは、どこの誰の責任なのか?
自分がジジイになり、我が子が成人を過ぎたこの時代はどこに向かっているのか?
「ひとごと」と「じぶんごと」の乖離は加速度的に大きくなって行くようだ。
ひとつは、公園の遊具「うんてい」の隙間から降りようとした児童の事故死。
足から降り、身体を抜き、顔を抜いた、ここまではよかった。が・・・
あろうことか防災用ヘルメットが2本の鉄棒の間を抜けることができず
あごひもで首をしめられた宙ぶらりんの窒息死に至ったものだ。
両手でぶら下がった状態で首を回すことができれば、あるいは抜けたのか。
私の近所で見かける児童用ヘルメットには2種類のカタチがある。
ひとつはごく普通の丸型、もうひとつはサイクリングなどの競技で見るような
流線型で前方に尖ったカタチをしている。
この事故の児童がどっちだったかは定かでないが、いずれにしても(あっ)と
気づいた時に身体を持ち上げて「うんてい」の上に戻る力がないことは明らかだ。
力尽きてぶら下がる以外に術がなかった瞬間を考えると、なんとも言いようがない。
これでまた、遊具が「危険物」として扱われるのだろう。
対面座席式の箱型ブランコの隙間に挟まった事故のときもそうだった。
ひとつは、母親がトイレに行ったわずか数分の間に襲われ命を奪われた事件。
小1の男児に持たせていたGPSケータイのストラップが凶器になったらしい。
我が子に持たせたケータイのストラップが絞殺の道具になるなど、親も
ケータイ業者も世間も微塵ほどの想像もしない。それが当たり前だ。
当たり前の安全のすぐ隣に当たり前のように「死」があると考えなければ
いけない世の中になってしまったのだろうか・・・
この事件でストラップの素材やケータイの持ち方が一部で議論されるのだろう。
さらに、公共トイレの構造から設置場所の条件まで発展するかもしれない。
しかし、本当の問題は別にあるのではないか、という気がしてならない。
なぜこんなに「死」が身近にあるのだろうか。
天災の死と人災の死を同列で考えているのではないか、と思わせるような
報道・世相観があふれているようだ。
99.9%が想像すらしなかった「死」が現実として毎日どこかで起きている。
命の重さを教えることはそんなにも大変なことなのだろうか?
ひとがひとであることの意味を教えるのは、どこの誰の責任なのか?
自分がジジイになり、我が子が成人を過ぎたこの時代はどこに向かっているのか?
「ひとごと」と「じぶんごと」の乖離は加速度的に大きくなって行くようだ。