朝もはよから。







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仕事中、10階上で働くなおふみからメール。











唐突ですが、そば粉売ってください。4人前。









ナンのこっちゃと思いつつ返信したら、

どうやら大晦日に家で蕎麦を打ってみるプランがあるらしい。









おいらの脳みそに、なおふみが嫁とイチャつきながら、蕎麦を打つ姿が鮮明に浮かぶ。












・・・。










むきー。











蕎麦粉なんかいくらでも分けてやっから、

替わりに あーたの幸せを少し分けてくれぃ。









・・・さみちぃ。











と、まあ。





冗談めかした本音はさておき、

これはおいらにとってはなはだ困った要望であったりする。




どこがどう困るかというと、それはそれは長いお話になる。


以下長いので、お時間のある方だけお付き合いいただきたい。










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蕎麦屋の次男坊として生を受けたおいらは、

小学校に上がるや否や、どんぶりを洗い、店を掃除し、

包丁を握って料理までするようになった。





料理が大好きだった。


一方蕎麦屋の主であるオヤジは、そんなおいらを黙って見つめていた。

決して「将来は蕎麦屋を継げ」とは一言も言わなかった。




自分の道は自分で決めるモンだ。

オマエはやりたいようにやれ。それがオヤジの口癖だった。




もちろん、オヤジは内心では、蕎麦屋を継いで欲しかったに違いない。

その証に「蕎麦屋をやるな」とも一言もいわれなかった。




穿った見方だが、オヤジの言う「やりたいようにやれ」の選択肢のなかには、

蕎麦屋も含まれていたのだと思う。それもかなり高い割合で。








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先天性の病を持って生まれた兄は、包丁を握りたくても握ることが出来ず、

16歳でこの世を去った。結果、おいらは蕎麦屋のひとり息子になった。




そんなおいらに賭けるオヤジの思いは、決して表には現さなかったが、

その胸には確かに在ったのだと思う。






一方、おいらはというと、以前このブログにも書いたが、たたき上げでやってきた

オヤジを強く尊敬しており、同じくらい強く劣等感を持っている。




蕎麦屋に愛着を持つがゆえ、蕎麦屋を継ぐという行為は、

おいらにとっては並大抵の覚悟では出来ないことだ。





おいらは音楽が好きだ。旅もしたい。



そんな思いと蕎麦屋はとても両立出来ない。してはならないことだ。

だから、おいらは人生の選択肢から、蕎麦屋を最初に消すのだ。



どうでもいいから、真っ先に消すのではない。

上手く表現できないけれど、たいせつだから初めに消すのだ。







それでもおいらは、調理場に立つことがある。

今でも料理は好きであり、料理をしているときはこの上なく楽しい。




具材の下ごしらえを手伝ったり、

具材を火にかける程度の簡単な仕上げはやる。

天ぷらもひと通り揚げてお客さんに出す。






でも、蕎麦を打つことと、出汁をとることは出来ない。




それだけは、敢えて教わらなかったのだ。


そのふたつは、オヤジとおいらの間にあるひとつの境界線なのである。


そのふたつのいずれかを習うということは、おいらは蕎麦屋の境界線を

またぐような気がするのである。おいそれとやれる行為ではないのだ。







過去、たった一度だけ、その境界線をはっきりと感じたことがあった。


意外なことにオヤジの方から、その境界線をまたごうとしたのだ。








おいらが、大学受験から帰ってきた日、

釜前で蕎麦を茹でていたオヤジが冗談めかしてこう言った。







「オマエ、大学落ちたら、蕎麦の打ち方覚えてみるか」






唐突に発せられたオヤジの言葉。おいらはに激しく狼狽した。

決してオヤジの口から出ないと思っていた言葉が、おいらの胸を強く揺さぶった。





今思えばそう重く捕らえずに、軽くそうだねぇと、請合ってしまえばよかったのだと思うが、

そのときのおいらは、戸惑っていた。そして、酷く詰まらない言葉をいい返してしまった。










「落ちるなんて縁起でもない。蕎麦屋なんてやんないよ」









そのときのオヤジの顔。


力なく小さく笑った表情を今でも思い出す。


そしてたまらなく申し訳ないことをしたという気持ちになる。




オヤジが境界線をまたごうとしたのは、後にも先にもそのときだけであった。







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そして今日に至る。オヤジは明日、71歳になる。


もういい歳だ。蕎麦屋を長く続ける元気は、ない。








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長々と書いてきたが、そんな訳で蕎麦粉を分けてもらうというのは、

オヤジとおいらにとって微妙な行為なのである。






蕎麦粉を分けてと言ったならば、きっと



「なんに使うんだ」 と聞かれ、



「友だちが蕎麦打ちたいって言うから」 と答えると、



「蕎麦粉だけでいいのか、つなぎは要らんのか」 など重ねて問われ、



「蕎麦粉だけでいいんだって」 と答えたならば、



「まさか十割の蕎麦を作ろうって訳じゃないだろうな」 みたいな話になり・・・、






話の行きつくところは、蕎麦の打ち方、出汁のとり方に向いていく。

そして、オヤジもおいらも、きっとお互いにそれなりの屈託を抱えた状態で、

それを表に出さずにボソボソとしゃべることになるのだ。










さて、どう切り出そう。






いっそのこと、少々の蕎麦粉なら黙って拝借しちゃおうかとも思う。




でも、それはなんだかずるいとも思う。

オヤジとの対峙から逃げている気がする。




これまでなんとなくアンタッチャブルにしていた会話をする

いい機会なのかもしれない。






単純なことだ。おいらが素直になればいいのだと思う。

そして在りのままの自分の気持ちを言えばいいのだと思う。







蕎麦屋は継がない。



けれどおいらは蕎麦屋であるオヤジを誇りに思っている。



オヤジの蕎麦が大好きだと。









・・・。









いやー、照れくさいね。

オヤジには申し訳ないが、たぶん言えないだろうなぁ。





在りのままの気持ちを、言葉に出すのは難しい。


年末にいつもよりも少し気持ちを込めて、

店を手伝うのがせいぜいである。




結局おいらは、いつまで経っても半端モンだ。


そう思う今日この頃である。