がらにもなく少々エラそうなことを申し上げます。

「相手の立場に立って考える」 ということは、どのような社会、どのような局面においても大変重要なことであって、もう少し言えば日常生活の中にある 「自分の当たり前」 は必ずしも 「相手の当たり前」 ではないということを理解せんければなりません。 でなければたちまち 「高圧的な物言いの人」 「傲慢な人」 という印象を相手に与えてしまうことになり、せっかく築いてきた関係にも亀裂が生じる可能性すらあります。
ただこれは上辺だけのお付き合いに終始している人間関係の場合には、なかなか見えてきにくい部分でもあって、やはりもう少し踏み込んだ付き合いの中にあってこそ、その人が相手の側に立ったモノの考え方ができる人なのかどうなのか、知ることができると言えましょう。

かく言う自分も、ではそういうことが出来ているのかと言えば、日々の人間関係においてなかなか相手の気持ちになって物事を考えるということが出来ていないことも多く、また自身の当たり前に思っていたことを相手に頭から否定されるような態度をとられてしまった場合には、その時こそ口には出さねどカチン!!ときてしまい、後ほど大いに憤激するなどといったこともこれ多く、しかしよくよく考えてみれば相手と自分とどちらが正しいのかといった次元の問題ではなくして、相手にとってはそれが正しい解釈として表現されているワケであるからやはりそこには先に述べた 「相手の当たり前」 をも肯定した上で自分の考えを相手の立場に沿いながらソフトに主張できるような人に自分はなりたい、ならなければと思います。

そう考えますと、どうもこの 「当たり前」 というのが難しく思われます。
巷におきましては当たり前のように日々人の口からついて出る「当たり前」。
人における「当たり前」はどのようにしてその人の中での「当たり前」を形成していくのでしょうか。

それはやはり個々における 「過去」 にあるのは明白でありましょう。
人は今現在起こっている事に関しては熱くなって客観的になれず、未来を予め知るという術を持たない以上、過去の経験によってのみ判断の基準や価値観が設定されるワケであって、例えばある人が消費者金融に金を借りに行ったとして、その金融会社のコンピューターはたちまちのうちに彼の借金履歴を過去のデータの中からはじき出し、すなわち彼は金を借りることができぬのであり、またテレビや雑誌などで、若い人たちにすれば一体この人は何をしている人なんであろうか、というような人物が登場していることがままありますが、そういう人物というのは大概が過去に偉業を成した人であったり、なにかしらの大きな影響を過去の社会に与えたというような人たちであって、そう考えると 「過去」 というのは大変重要な存在であり、過去の存在が現在を形成しているといってもこれ過言でないと思われます。
そのような重要な存在であります 「過去」 に成された 「経験」 によって、その人の 「当たり前観」 は形作られていくと考えるのが妥当なところでありましょう。


ではそれら過去によって形成せられた「当たり前」の意識の中に、先に申し上げました相手の立場に立って考える・・・いわゆる 「人の心を汲む」 という普遍的な意識をいかに多く取り込むことができるか・・・。
これはあえて一言で言ってしまえば、

過去にどれだけ心を尽くして生きてきたか

によるところが非常に大きいと自分は考えます。
お金持ちだとかそうでないとか、夢が叶ったとか叶ってないとか、そんなことは一切そこには関係のないことなんであります。
人生のあらゆる局面において、心を尽くして歩んできた人というのは、後の人生において他人の心の痛みを理解し、また相手の立場に立ったモノの考えかたをすることが容易なのであります。


阿呆と思われても良い。

心をこそ尽くして生きていきたい。


今日の空は雲ひとつありません。