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【キーワード】唯一の爆撃記録、潜水艦から発進、恩讐を超えた親善交流
















【以下転載】

https://digital.asahi.com/articles/AST703WFRT70UJHB014M.html
「大戦中、米国本土を爆撃したパイロットがいた 戦後は日米交流に尽力」

                  Asahi.com 斉藤勝寿 2025年8月8日 7時00分

写真・図版_「わが米本土爆撃」=毎日ワンズ提供

写真・図版写真・図版写真・図版

 太平洋戦争中、米国本土を爆撃した海軍パイロットがいた。茨城県土浦市に住んでいた藤田信雄さん(故人)だ。戦後は爆撃した米国の街と交流をすすめ、草の根の日米親善に努めた。最近では著作が出版されるなど脚光を浴びつつある。

 開戦から4カ月後の1942年4月、東京を初空襲された日本軍は報復を期していた。白羽の矢が立ったのは潜水艦の飛行長をしていた藤田さんだ。

 潜水艦のカタパルトから発進した小型水上機で偵察任務をしていた。水上機に搭載した爆弾を、米国・オレゴン州の森林に落として、山火事を引き起こす任務を命じられたのだ。

■森林に計4個の爆弾を投下

 実行は同年9月。潜水艦はオレゴン沖に浮上、藤田機は米本土に2回侵入し、同州ブルッキングス市郊外の森林に計4個の爆弾を投下した。

 記者はそのときの思いを聞いたことがある。

 「出撃のときは、海上で撃墜されたくない、とだけ祈りました。陸上だったら、爆弾抱いたままどこかに突っ込めばいい。今の人には理解できないでしょうね」

 爆撃は成功したものの、折からの雨の影響もあってか、想像していた戦果はなかった。

 特攻要員として敗戦を迎え、戦後は土浦市で金物店を開業する。

■米国から招待状、事情わからず訪米

 戦後17年たった62年、政府を通じてブルッキングス市から招待状がやってきた。事情がわからず「爆撃の報復かも」と緊張して訪米すると、「あなたの勇気は敵ながら見事」と街をあげての大歓迎を受けた。辱めを受けたら自刃しようと帯同した日本刀をそのまま贈呈した。

 一方、実業は暗転する。営んでいた金物店は事業拡大があだになって倒産。無一文になり、逃げるように友人の工場に身を寄せた。

 失意のどん底で支えになったのは、「訪米への返礼としてブルッキングスの子どもたちを日本に招待する」といった思いだった。

■米国で贖罪の植林も

 最初は従業員バスの運転手として採用されたが、後に温厚篤実な人柄などを買われて工場長に起用された。ついに100万円をため、85年、ブルッキングスの女子高校生3人を現在のつくば市で開かれた科学万博に招いた。

 その後も交流は続く。爆撃から50年後の92年にも訪米し、爆弾を落とした森林に贖罪(しょくざい)の植林を行った。「交流を通じて学んだのは、戦争の愚かさ、人間同士が戦うことの愚かさです」と語っていた。

 亡くなったのは97年。ブルッキングスの友人、ハロルド・バワーズさんが「名誉市民」の宣言書を携えて来日し、入院中の病院に向かったが間に合わなかった。

■遺骨の一部は米国内に

 「長年に及ぶ我が市の友人であるとともに我々の誇りでもある」。宣言書は葬儀の場で読み上げられた。藤田さんの遺骨の一部はブルッキングスの森に埋葬された。

 藤田さんの遺品は、土浦市にある陸上自衛隊霞ケ浦駐屯地に寄贈された。敷地内にある広報センターには、日米友好に寄与したことを評価されて当時のレーガン大統領から贈られた星条旗や実際に落とした焼夷(しょうい)弾の破片などが展示されている。

 最近では自伝をもとにした「わが米本土爆撃」が出版されている。刊行した「毎日ワンズ」の松藤竹二郎社長は「米本土の空襲、戦後の日米友好……。藤田さんの存在を知った時は信じられない思いだった。そんな日本人がいたことを多くの人に知っていただきたい」と話す。