日々の雑事の哲学的解釈

日々の雑事の哲学的解釈

日常の出来事や社会問題、霊的なことや精神的なこと、心理学や医学的なこと、オカルト科学的なことで気づいたことや勉強したことを書き残すためのブログです。誰かの参考にでもなれば幸いです

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 「アルコールを摂取しすぎると幻覚が見える」という話を小さい頃に聞いて、なるほどどんな幻覚が見えるようになるのだろうと大人になるのを楽しみにしていたが、大学時代、いくら摂取してもちっとも見えやしなかった。せいぜい頭が少しぼうっとして気が大きくなるくらいだ。酒癖が悪いと回りの人間からよく言われていたが、何のことはないただ単にもともと嫌われてるというだけの話だろう。

 シュタイナーは霊的な器官の発達の妨げになるので、「酒はどんな種類のものでも禁止する」と弟子に厳しく教えていたらしい。肉食を禁じないシュタイナーがいうのだから、それだけ強い影響があるのだろう。

 コロナの影響で半年近く酒を飲む機会がなかったが、ついこの間しこたま呑む機会があった。久しぶりだから肝臓の酵素が余っていたせいか、いくら呑んでも気持ち悪くならず、吐き毛もせず、おいしいと思えるお酒だった。

 酒を飲んだ翌日、外に出ると、何だか世界が少し変わってみえた。何というか、色彩とか音が、いつもより少し鋭敏に感じとれるようになった。魔法使いが風の音や動物の囁きから何かを読み取るように(ゲド戦記からの引用)、世界の形象や色彩や音の背後には様々な霊的な意味があり、よりこの感覚を研ぎ澄ますことができれば、それらを霊視した上で表現できるようになるかも知れない。だから文豪は酒を嗜むし、この一種のサイケデリックな感覚を必要としているのだろう、なんて感じた。

 さてそんな風にすれ違う際に目にする木の葉の美しさや風の匂いにうっとりするだけならいいのだが、問題は人と接する時だ。とある理由で眼科に行った時の受付の人や、眼科に行った後に入ったカレーのチェーン店での店員、コンビニの店員なんかの態度が、普段なら平気なのに、なんだか酒を飲んだ翌日はひどく醜悪な…鈍重なものに感じてならなかった。彼等がどんな気持ちで働いて、普段どんな気持ちでいるのかがなぜだかうっすらと伝わって、霊視できるようだった。不満を抱いてるのはわかった。もっと俺の給料を上げろ…俺を評価しろ…とでも思っているのだろうか?いずれにせよ、彼等と接するだけで、ドッと気が吸われてるような気分で、サイケデリックな感覚にウキウキしてたのが一気に憂鬱な気分になった。普段は霊的な感覚を閉ざしている分、そういった輩から影響は受けにくいのかも知れない。だがその分、日常の風景に感動したり、空の美しさに涙するようなこともなくなる。普段の感覚が正常なのか、それとも霊的な目で見ると醜悪な回りの世界が異常なのか、どちらだろう。(巷の低レベルのスピならここで周囲の醜さはあなた自身の心の醜さだなどと使い古されたような表現をしてくるだろうが、美しいものには美しさをきっちり感じている時点でその指摘がおかしいことには気付いて欲しい)

 いずれにせよ、普段の閉じた感覚では、芸術を始めとする想像的な感覚を表現にまで繋げるのはとても難しいと感じた。世界が醜悪すぎて、心がついていかないのである。心にフタをして見えないようにしないと、世界の醜悪さにあっという間に潰されてしまうだろう。しかし、心にフタをする行為もやはりエネルギーの流れに滞りを生じさせる。それが人格の歪みや生活の歪みという形で噴出することはある程度は避けられない。とはいっても、先日僕が感じた彼等の醜悪さは、そんな類のものではない。何かを熱心に磨いたり、鍛えたりしてるような人達は、あんな鈍重な霊視像を見せたりしないだろう。あれは、不平不満を排泄物のように垂れ流して、霊的に敏感な人にその後始末をさせている。想念の世界では、そんな風に見えるだろう。

 電車でもそんな人達が沢山いる。このご時世に紙の新聞をわざわざ電車内でパンパンいわせながら読む人達や、トナラーと呼ばれる社会的距離を保たない人達。ホーム際や電車の乗り降りの際に歩きスマホをするような人達。特に何か信念や理想がある訳でもないのに、やたらしかめっ面をして不機嫌そうな人達…枚挙にいとまがないが、そんな低俗な霊的なエネルギーを発する人達が世界には溢れているということだ。だからアルコール依存症になると、そんな人達から邪悪なエネルギーが一気に流れてくることになるかも知れないから、気をつけないといけない。