約一ヵ月半ぶりにブログを更新します。

最近は全くブログを書いていないにも拘わらず、アクセス数は毎回20件くらいはあります。

こんなブログでも見てくれる人がいるのは有り難いです。

もっとちゃんと更新しないといけませんね。
σ(^_^;)

今日は文章を理解するということについてお話します。

読解力を養い、文章を正しく理解することが重要であることは間違い有りません。

社会人/学生に係わらず、小中学生でも読解力は重要視されています。

しかし、社会人でも文章を読むことを敬遠したり、面倒くさがる人は沢山います。

あるいは、「解らなければ人に聞けば教えてくれる」程度に考えて、始めから文章なんて読もうともしません。

また、一応文章を読んで自分では理解したつもりでも、実はあまりよく分かっていないケースもあります。

文章を自分の物差しで解釈して、本当の意味を理解していないのです。

これは非常に問題だと私は思っています。

文章は人に何かを説明したり報告したり、自分の考えや感想などを伝えるためのものです。

ですから、読む人に分かり易く書かれていなければならず、普通の読解力があれば誰でも理解出来るものです。
(ここでお話している文章とは、専門家や一流学者などが読む、難解な論文や学術書、法律文などを指すのではありません。ごく一般に発行されている小説や新聞、解説書、説明書などのことです。)

もし理解出来ないとしたら、恥ずかしながらそれはその人の読解力のレベルが低いか、文章自体が煩雑で分かり難いかです。

論理的でない目茶苦茶な文章なら理解できなくても当然です。

また、文章を理解するには語彙力とある程度の知識と経験も必要です。

何の経験も知識もない文章では、正しく理解することはできません。

例えば、「九州で1時間に100ミリを超えるモーレツな雨が降りました」という記事があったとします。

1時間に100ミリといえば、かなり甚大な大雨であることは普通の人なら理解できます。

しかし、100ミリの雨がどれくらい凄い雨なのかを知らない人は、「100ミリなんて、たかが10㎝じゃないか」と思うかもしれません。

面白い本を読んでも、それが何故面白いのか理解できなければ笑いにはなりません。

私もたまに自分では面白いと思う話をコメントに書いても、相手には理解してもらえないことがよくあります。笑い泣き


読解力が重要であるということに関連して、私の経験談をお話します。
 

私は35年前ソフトウェア会社に入社しました。

入社すると研修期間ということで、数冊の厚いテキストを渡されました。

「この本を読んで勉強するように」と言われ、一日中本を読んで過ごす日々が続きました。

研修とは言っても、先輩が付いて丁寧に教えてくれるわけではなく、自分で本を読んで勉強するというものでした。

勿論、解らない所があれば質問するのですが、下手な質問をすると、「君は今まで何を勉強したのかね」なんて言われてしまいます。

会社という場所は学校とは違い、人に教わって何かを学ぶ場所ではありません。

これは社会人になったら、是非肝に銘じておかなければなりません。

「教えてくれる人がいないから分かりません」、「そのことについては、まだ教わっていません」なんて他人任せな発言は、社会では通用しません。

きっとレベルが低い奴だと思われるでしょう。

会社や企業が高卒以上、または大卒業以上の人を採用するのは、彼らの学力を見込んでいるからです。

高校卒業程度の学力(読解力)があれば、いちいち説明しなくても、自分で本や文章を読んで理解出来ると思っているのです。

社会人は自分で考える能力を持っていて当然です。

文章を読んで理解することは、社会人としては当たり前の能力なのです。

しかし、このことを分かっていない人たちは、文章なんか無視して口頭だけで事を済ませようとします。

これが後に、”言った言わない”、”聞いてる聞いてない”、とっいったトラブルになるのです。

例として、新しいアプリケーションを導入することになり、その使い方を覚えるとします。

新しいアプリケーションですから、当然知っている人は誰もいません。

そこでしっかり者はどうするかというと、アプリケーションのマニュアルや入門書などの本を読んで、内容を理解することから始めます。

しかし、文章を読むことが嫌いな怠け者は、誰かが使い方を覚えるのを待って、その人に聞いて教えてもらおうとします。

そういう人たちは、自分で努力することをせずに、他人の苦労を横取りする卑怯な奴等です。

私はそういう人間にはなりたくないといつも思ってきました。

彼らは自分が聞いていないことは「お前がちゃんと教えなかったんだろう」んなんて、解せないことを言ってきます。

第一、コンピューターのような複雑なものを、ただ人に聞いただけで全て完璧に理解できる筈がありません。

文章を読んで理解し、自分で問題を解決する能力こそが社会人に必要な能力なのです。

 

固い話はこれくらいにして、ちょっと歌の歌詞についてお話します。

森山良子さんが作詞した「涙そうそう」という楽曲は、森山さんがが若くしてこの世を去った兄を想う歌詞をつけたことはご存知かと思います。

私はテレビの対談番組で、森山さんがこの歌について語っているのを聞いてこのことを知りました。

古いアルバムを開いて、お兄さんの写真を見ながら「ありがとう」と呟く
若い頃のお兄さんとの思い出に涙が溢れ、そして感謝する。
夕暮れに見上げた空にお兄さん星を探し、きっとお兄さんは空から私を見ていてくれる。
またいつか、きっとあえると信じて生きていく。


歌詞の意味はだいたいこんな感じですかね。

メロディが美しく歌詞も簡単なので、なんとなく意味も分かったような気になります。

でも、この歌が作られた背景や作者の意図が分からなければ、この歌の真意は理解でません。

 

昭和フォークの名曲に「神田川」という楽曲がありました。

この歌は昭和48年にがぐやひめがリリースし、大ヒットしたあまりにも有名な曲です。

歌詞は以下の通りです。

貴方はもう忘れたかしら 
赤い手ぬぐい マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねて言ったのに
いつも私が待たされた
洗い髪がしんまで冷えて
小さな石鹸カタカタ鳴った
貴方は私の体を抱いて
冷たいねて言ったのよ
若かったあの頃 何も恐くなかった
ただ貴方の優しさが恐かった

貴方はもうすてたのかしら
24色のクレパス買って
貴方が描いた私の似顔絵
うまく描いてねて言ったのに
いつも一寸も似てないの
窓の下には神田川
三畳一間の小さな下宿
貴方は私の指先見つめ
悲しいかいて聞いたのよ
若かったあの頃 何も恐くなかった
ただ貴方の優しさが恐かった


この歌詞にも特に難しい言葉は無いので、読めば誰でも意味は理解できます。

初めて読んだ人でも、「男と女が一緒に下宿で暮らしていて、お風呂屋さんに行ったことや、貧しい生活を思い出している歌」くらいは解釈するでしょう。

しかし深く読み解いてみると、いくつかの疑問点が浮かんできます。

まず、この二人はどういう関係なのでしょうか?

歌詞の全体的なイメージから、読み手は勝手に恋人同士のカップルを想像すると思います。

しかし、それを具体的に証明する歌詞はどこにもないのです。

また、女性は何故お風呂から上がってから、わざわざ寒い中を外で待っていたのでしょうか。
(外という歌詞は出てきませんが、”石鹸がカタカタ鳴った”という表現からも多分外で待っていたと推測できます。)

お風呂屋の休憩場で、温まって待っていればいいのにと思いませんか(笑)

「若かったあの頃」という歌詞がありますから、今はもう若くはない女性だと推測できますが、相手の男性も若かったとは言っていません。

では、この女性と男性は何歳くらいなんでしょう。

例えばこの歌詞を、「若い娘と父親が二人で貧しい暮らしをしている状況」ととらえれば、解釈も変わってきます。

「ただ貴方の優しさが恐かった」という歌詞も、父親の優しさを感じながらも、同時に厳しさも感じていたと解釈できます。

「貴方は私の体を抱いて冷たいねて言ったのよ」という歌詞から、父親が娘を優しく抱きしめている光景が目に浮かびませんか?

つまり、文章というのは、文脈が異なればその意味も違ってきます。

ただ、このような歌や詩であれば、別に読む人によって解釈が違ってもさほど問題にはなりません。

しかし、説明書や報告書などが読む人によって解釈が異なるようでは問題です。

文章は誰が読んでも同じように解釈されなければなりません。

会話であれば、その場で言い直しや聞き直しができますが、文章はそうはいきません。

某国会議員のように「誤解を招きかねない表現がございました」なんてことは言えません。

でもどんなに丁寧で分かりやすい文章でも、やはり読む人に適切な読解力がなければどうしようもありません。

読解力を養い文章を正しく理解することは、生活するうえでは絶対に必要なことです。

 

読者登録してね   ペタしてね