🌉 夕暮れ、ビーナスブリッジ

 
赤いボルボが、夕方の街をゆっくり走っていた。
フロントガラスの向こうで、空の色が少しずつやわらかくなっていく。
 
蓮
もうすぐ夕暮れやな。
 
窓の外を見ていた結衣は、小さくうなずいた。
 
結衣
ほんまですね。
 
蓮
よかったら、ビーナスブリッジ行ってみない?
 
その名前を聞いた瞬間、胸がきゅっと鳴る。
きれいな夕暮れ。
蓮と二人。
 
行きたい。
でも、頭には事務所との打ち合わせが浮かんだ。
 
結衣
ビーナスブリッジ……。
蓮
少し遠回りになるけど。夕暮れ、きれいやと思って。
強く誘う声じゃない。
だからこそ、断れなかった。
結衣
……行きたいです。
蓮
ほんま? よかった。
蓮が笑った。
その笑顔を見た瞬間、結衣はもう引き返せない気がした。
けれど、シートベルトに手をかけたまま、結衣はためらう。
結衣
あの……ちょっとだけ、電話してきてもいいですか。
蓮
うん。もちろん。
蓮は道路沿いのコンビニに車を入れた。
結衣は外へ出て、スマホを握りしめる。
画面に映る、事務所の番号。
指先が震えた。
ほんまに、するんや。
一度だけ息をのみ、発信する。
呼び出し音は、すぐに途切れた。
事務所
はい、おつかれさまです。
結衣
おつかれさまです。結衣ですけど……すみません、ちょっと体調が悪くて。
嘘が、するりと口から出た。
事務所
大丈夫? 熱あるの?
結衣
熱はないんですけど、朝からだるくて。今日の打ち合わせ、動けそうになくて……ほんまにすみません。
事務所
分かった。今日は無理せんとき。また落ち着いたら連絡して。
結衣
すみません。ご迷惑おかけします。
通話が切れた。
スマホを下ろしても、胸のざわつきは消えない。
体調が悪い。
動けそうにない。
そう言った自分は今、蓮とビーナスブリッジへ向かおうとしている。
悪い子や。
 
それでも。
その後ろめたさごと抱えて、行きたいと思ってしまった。
 
車に戻ると、蓮がこちらを見た。
 
蓮
大丈夫やった?
結衣
はい。お待たせしました。
蓮
じゃあ、行こか。
結衣はうなずき、シートベルトを締めた。
さっきとは違う感触だった。
もう、ただのドライブじゃない。
自分でひとつ嘘をついて、選んだ時間だ。
ボルボが静かに駐車場を出る。
窓の外で、夕暮れが近づいていた。
 
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