膝からゆっくりとフローリングに横たわる。天井を見上げる。視線の先に何かが擦った跡がある。黒い。腕を伸ばしてみる。しかしその腕は力なく目を覆った。感情とは裏腹に口は笑い、目は泣いた。日が沈むとともに部屋が暗くなった。感傷に身を任せるのを諦め、カーテンを閉め、電気をつけた。
こんにちは。自己顕示欲に負け、TwitterにブログのURLを張り付けてから早数日、そのツイートは自分にすむ天邪鬼によって削除されました。なむなむ。
Twitterをカリカリとスクロールしながら眺めていると、三島由紀夫の名言BOTが目に入った。
『私の言いたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬の味とは縁の切れない、そういう中途半端な日本人はもう沢山だということであり、日本の未来の若者にのぞむことはハンバーガーをパクつきながら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしてくれることである。』
これは大きな時の流れで見たら最近の言葉であるが、現代からすると昔の言葉である。しかし、現代に通づるものしかない。技術革新が進む中で、人間そのものは歴史を繰り返している。そんなことあたりまであるということを知っている人はほとんどである。しかし、ほんの一欠片の人間は、人間も日々進化していると錯覚する。時計は何周回っても突然早くなったり遅くなったりすることはない。時間のずれは電池が足りないか誤差である。決して時計の意志ではない。しかし、最近はその誤差に腹を立てる人が目立つ。滑稽である。
マイナス思考にも種類が存在すると思う。その中で私は「攻撃的」マイナス思考と「保守的」マイナス思考の二種類が存在することを確認した。攻撃的マイナス思考は三島由紀夫のいう「口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬の味とは縁の切れない」人のことである。私の嫌いな分野だ。よくいる「もっと外の世界を見なよ!!視野を広く持とうよ!!日本のこのシステムはウンタラカンタラ・・・・・」という連中のことであると私は解釈している。このような人たちは視野が広いように見えてただの近視である。遠くは見えているが近くは見えていない。遠くを見ていれば視力は回復するというが、彼らが視力を取り戻すには眼鏡をかける必要がありそうだ。しかし彼らは拒むだろう。「目なんか悪くない!!そんな物かけるから目が悪くなるんだ!!!」
保守的マイナス思考は多くの人が持つマイナス思考そのままであるので省略。不必要なことという風潮があるが、私は決してそう思わない。無理やりプラス思考にならなくても向上心のあるマイナス思考になればいいのである。私はそうやって小さな妥協と忍耐を重ねてきた。もとい、毒薬をなめ続けてきたのである。
ただ私には天邪鬼が住んでいるので、このブログも攻撃的マイナス思考が効いてしまっていると思う。米は雑味が少しある方がおいしいという。そういうことにしていただきたい。
エネループ思考の男より
久々にここに駄文を書きに来てしまった。こんなところで文章を打つぐらいなら新しい論文を書いた方が社会貢献できるに決まっている。と、少しでも思ってしまった自分が恥ずかしい。ここに書く文章は無益を前提としているのにもかかわらず、比べるものがお門違いすぎる。ということできっとTwitterから来た人はこれを一番に見る記事になることになると思う。ようこそ悪臭漂うブログへ。この臭いに耐えきれられる人はどうぞ読んでいってほしい。読み終わったころには鼻が曲がり切っていること請け合いだが、こちらは一切の責任を負わないのでご了承してほしい。
随分前に気づいたことがある。私はここで飽きるほど行っているように無意味なことを有意義に楽しむことを良しとする人生を謳歌している。その対義語を発見した。「利益至上主義」である。
この利益至上主義という単語、とてもリズムがいいのでついつい口にしてしまうが、そのリズムは決して字面だけのものではない。実に効率的な主義となっている。人生で利益というものは自らを豊かにするために必要不可欠である場合が多い。そのため多くの人が自らの利益を求める。自然の摂理であろう。腹が減ったら飯を食う。ただで飯を食えたら幸せに違いない。そのため人から食料を奪う。食ってしまえばこちらのものだ。ああ、なんて幸せなのだろう。自分は明日を生きることができるのだ。
さあさあ、皆さんは理性が強い方が多いと思うので気づいていると思う。利益至上主義、地球に人間が一人でいる場合のみ、人類すべてが幸せになるものである。この世は弱肉強食、食うか食われるかの世界、上に立つものがいれば、下で踏まれる人が出る。これを避けることは難しい。人を踏んでいる意識を持たぬもの、それが利益至上主義だ。大っ嫌いだ。
最近は利益至上主義、真面目が馬鹿を見る時代になりつつある。漫画も映画もゲームも無料、お金は楽して稼ぐ、世をグレーゾーンで楽しむ時代である。その中で私は無意味に生き、その時間を有意義に過ごしていきたい。遠回りした人の方が知っている景色が多いことを利益至上主義者は知ることができない。私が唯一浸ることができる優越感である。
もちろん、得することはこの上なく良いことである。ただ、それを「計算」で作り出すことは私の主義に反する。「得」と「徳」を勘違いしないよう生きたい。
おなか減った。
こんな時間でも書きたいことがあるときに書く。後先を考えず、明日起きるのが早かろうと書く。それが無意味で有意義なものであると心得る。そんなわけで深夜にパソコンを立ち上げカタカタしているわけなのです。
私が人とコミュニケーションをとるうえで一番気を使ってきたことが「相手の気分を害さない」ということだる。後にそれは自分の空気的存在につながってきてしまうわけでありますけれども、なんとその反面手に入れた技術は山ほどあり、私はそのおかげで今日を生きています。
一つ紹介しますと「あえて騙される」というのがあります。これは己の演技力が非常に試されるもので、非常にスリリングです。しかし、この方法を使えばウィンウィンの関係になることができるのです。重要なのは、自分に損失を出さないということです。損失ありきで臨むこともありますが、それは「自己犠牲の精神」のほうに分類されますので、また違うものとなります。損失を出さずに騙される、要するにこれは相手をだますということです。騙し騙されあう関係を作ることで一方的な矢印ではなくなり、相互に影響しあうことができるわけです。さらには、相手を自分が騙していることに気づいていない状況になるわけですから、こちらが優位な状況になるわけです。あるバンドの歌詞を思い出しました。見た目ではおなじ100gでも、何周針が回ったかは実際に持ってみないとわからないのです。100gなのか、1100gなのか、-900gなのか、見た目で判断するのは非常に浅ましい方法であると思います。
眠いです。また明日。
11月の初投稿ということになりますが、もう12月の背中が視界いっぱいになっています。私はいっぱいいっぱいになりながらも11月と戦ってきたわけですが、例年よりはるかに過ごしやすい月となりました。これが「余裕」なのでしょうか。齢を重ねているので言わば「大人の余裕」といっても過言ではないのではないのでしょうか。とても味わい深いものであります。神のような余裕が欲しいです。
ブログ更新に間が空いてしまったので前回のブログを読み返したりしていたが、見返して赤面する内容じゃなくてよかった。主観的には。11月、無意味で有意義な生活ができたような気がします。楽しさと苦しみは紙一重だということは小学校から勉強していることで、誰もが知っていることです。しかし、楽しい部分だけを抽出したものを今の環境下にいる人たちは求めすぎているように感じます。それはインターネットが普及したことと多少の関わりがあるかと思います。しかし、インターネットが悪影響を与えているというよりは、世の中が便利になってきたこと、これが一番の原因であるということはだれが見ても明白です。なぜそれが問題なのか、それは「便利になった」ことを知らないということ、体験したことがないということです。時代が流れていく中でそれは避けられないことであると思いますが、急速な発展の副作用はとても大きかったようです。
今までのあたりまえの例として、私は「インターネットで簡単に素性を明かさない」ということが使用する上でのモットーであると思っていましたが、それも変わってしまったようです。匿名性であることに我慢できない人が多すぎるというか、完全に麻痺してる状態になっていると思います。
・・・・・・・・・・・眠くなってきた、、、
ラリホーをマホカンタされてしまったみたいなのでもう無理です、、、だれかザメハしてね、、、
返事がない ただの屍のようだ
私生活に落ち着きが出てきましたので、やっとここに云々カンヌン書くことができます。云々カンヌンって「云々カンヌン」で表記はいいのだろうか。変換しても出てこないので調べねば。
2つの台風を経験し一皮むけた日本列島は本日木枯らし一号が吹いたそうで、すっかり秋は背中を向け、すぐ後ろには冬が背筋を冷やしております。今年の秋はめでたく悲しいマリーにあわなくて済みそうですが、まだまだ油断は大敵です。個人的に11月が一番の山場、登り切ってしまえばあとは下るのみ、山の神の恩恵も受けながら正月をめでたく迎え箱根駅伝を家でのんびり眺める未来が待っています。
今まさに10月が終わろうとしているわけでありますが、この時期が勝負、うかうかしている場合ではありません。改めて今年を締めくくる準備を進めなければ、2017年にいろいろ置き忘れてしまいます。その準備というのは、すべてをやり遂げ晴れやかに新年を迎えることを理想としたものだけでなく、来年に様々な思いを込めて先送りにすることがどちらかといえば大変です。しかし、自分自身が納得したうえでの先送りはとても前向きなもので、取り残した物への後悔を抱かずに済みます。そのおかげで私はいつも弟と小躍りをしながら年を越せるというわけです。
後悔といえば、「後悔しない人生を!」とSNS等のプロフィール欄に書いている人の人生に私は深く関わりたくありません。その言葉からにじみ出る現実逃避と自分勝手な感情を混ぜたドロドロとした強情なエキスは毒薬をたくさん蓄えてきた自分でも口にすることを拒むような代物です。類義語として「人生楽しんだもんがち!!」があります。その人は誰と勝負しているのでしょうか。
今年もあと二ヶ月、無意味で有意義に過ごしていきたいものです。
(終)
最近、とてつもなく自分の非力さとポンコツ加減に腹が立ち、そうかと思えば将来への希望の無いような目をわざとしてみたり、あるときは今までの人生を振り返り、意外と悪い人生じゃないじゃないかと思い出を吟味したりと、多忙な暇を人間らしく過ごしているところである。うわ、なんかポエムっぽい。昔から厨ニ病という曖昧な表現の境界線に疑問を持っていたが、これはどちらかといえば線を超えたところにあるものなのかね。
部屋にある椅子に座り机に向かっている時と、布団の上で無駄をムダムダしている時とでは体調から考え方まで全て変わってくる。本当に別人化のように心のやる気が違う。勿論ムダムダしているときはすべての行動が億劫になり、何もしたくなくなる。このまま布団になってしまいたいとすら思う。一方で椅子に座っているときには頭が冴え渡り、今日のタスクをいち早く終わらせまいと奮闘する。この人格の違いはどこから来るのか。原稿用紙400字程度にまとめられそうな簡 単な結論がありそうなものだが、あえて宇宙の真理としてこれからの人生で扱っていこうと思う。
雨が続いている。もう秋である。何ならもはや冬である。雨続き過ぎだろ。梅雨かよ。これ以上外に出る気力をなくすのはやめてほしい。おひさまが見たい。
さんさん産直
皆様こんにちは。と書くことが多いが、不特定多数に向けての挨拶ほど虚しいものはない。誰かが応えてくれるわけでもなく、こちらの一方的なファーストコンタクトであって、何とも自分勝手である。自分勝手といえば、部屋の掃除をしていた時、落書きがしてある授業プリントが出てきた。その落書きはドゥラエモンやアァンパァンマァンのようなものではなく、ちょっとした反省文ならぬ反抗文であった。下記参照。
「いきなり後ろに下げられ、その途端に、まるで掃き溜めを見るような態度を取られているような気がしてならない。人は誰もがミスを犯す。そのミスを可視化する のはいかがなものか。大学の授業になぜ「自主性」を求めないのか。この問題以前に私は「必修科目」に納得がいっていない。学ぶ権利があるのと同時に私達には学ばない権利もある。大学での授業はまるで本末転倒だ。教授は何もわかっていない。わかっているのは私達よりいい頭を持っているということだけだ。常に見下していると言っていいだろう。」
・・・とてつもない、支離滅裂な詭弁である。当時はきっと自らの努力や感情を全否定された感覚に腹が立っていたのだろう。しかし何とも情けなく、弱弱しい反抗文である。だれにも届かない心の叫びとはこのことを言うのか。是非過去の自分には防音のきいた心の中で叫び続けてほしいと思う。
久々戻ってきた。本当はアウトプットできる環境を求めていたのにもかかわらず、パソコンの電源を入れることすら面倒くさがった私はすっかりナマケモノと化していた。それではまずいと大学のパソコンからわざわざ投稿している。周りに人が少ないのが不幸中の幸いだが、タイピングをカタカタとしているのは私ぐらいのもので、ほかの方々は熱心に課題に打ち込んでいる。非常に申し訳ない。非常に申し訳ないので、自分は音楽をかけずにイヤホンを耳にさしている。
だからなんだというのだ。申し訳なさとその耳栓状態に何か意味があるのか。無論、まったくもって意味はなく、ただただ現状について述べただけである。私はヤバいやつである。
ヤバいやつとは言っても、私にはユーモアというか、面白みに欠ける人間であることを自覚している。かけているといってもパズルの1ピースというよりは、三日月の時の月程かけている。どんなに遠くから見ても満月には程遠い、つまりは決定的欠陥である。
そのため、自分のことを「久しぶりに会うにはちょうどいい友人」であるのだろうなと客観的に分析している。実際に私の数少ない友人にも直接そう言われたことがある。常に一緒にいたい、ともに行動したいと思うには物足りないような、そんな存在が自分である。こればっかりはネガティブな内容を記すしかあるまい。自分の性格上解決の仕様がないのだ。正確に言えば、この存在感を変えるために中学校から大学にかけて様々な変化を自ら起こしてきた。それについては自負できる。しかし、結局のところ、根本的なものは何も変わらず、経験は残ったものの、考え方や振る舞いには変化を起こすことができなかった。これは最近の無気力感にも影響していると感じている。努力では変われないものもある。それに足しては勇気ある「取捨力」が必要である。私は私を捨てきれなかったため、当然のごとく新しい私を手に入れる好機を何度も逃してきた。これは無意識でも有意識でもそうであった。
いまだにこの感覚に悩まされている。もともとの性格を完全に理解しきれていない。「楽」を否定し「苦」を信じいることはわかる。しかし、その苦しさというものに依存した結果、怠惰な感情も膨れ上がってしまった。まさに私は毒薬を舐め続け、その毒に依存してしまったわけです。
今日の天気は曇り。
すっかり秋晴れ・・・かと思いきや気温はやや高め、服を着ればすぐに汗が染みこんでしまい、すぐに脱いだとしても、しっとりとしたものになってしまいます。服に迷うものなら来たもの全部洗濯機の中に放り込まなければなりません。まあ、迷うほど服は持っておりませんが。
今日は性格の話をしようかと思いましたが、ここで話すには私の気力と指が持ちませんので今日はやめておきます。しかし、そうなると、今日書くことがありません。どうしようか・・・
よし。
世の中は多数のものと少数のもの二種類に別れます。五分五分という種類もあるかと思いますが、それは数学上の話であり、選択肢に制限がしない限りそうなることはなかなかありません。多分。その中で、殆どの人は多数派に属することを望みます。正しいか間違っているかを決めることができない事柄はもともとそんなこと決められるものではないのです。その中で多数派に属することは非常に効率の良いことであると思います。しかし、多数派の人に属している人の一部は少数派を見下します。更に一部の人は少数派を間違いだと言い切ります。これはどちらかが良い悪いの関係ではないと思いますが、なんとも住みづらい環境をっ作っている心理の一つであると思います。
・・・打ち込むのに飽きてしまったよ、パトラッシュ。続きはまた今度にしよう。
マイナーイズグッド。
