熊本県 八代市

 

 

 

 

マウンテンビュー

 

 

熊本県 八代市。

 

そう、昨年の10月に僕は初めて熊本県の八代市を訪れてみた。

 

なぜ観光都市でもない八代市に?

 

それは、若い頃にアメリカのサンフランシスコで出会い、付き合ってた彼女の故郷が熊本県・八代市で、そしてあの当時から約30年弱の経て、急に彼女の故郷をみてみたくなったのだ。

 

生まれて初めて訪れた八代市。

 

秋晴れの澄み切った青い空の下、彼女が生まれ育った街をひとり散策してみる。

そして当時二人でよく聞いた曲をAirPodsで流す。

Every Little Thingの”出会った頃のように” 、”For the moment" 、

ZARDの"Don't you see "B'zの"calling" それらの曲が当時の様々なシーン、そして会話などを次々に運んできて、まるでタイムマシーンのように一気にあの頃の気持ちに引き戻される。

それは切なくもあり、グッと心臓を掴まれるようなノスタルジックな感情、、でも決してネガティブな気持ちだけではない、心が満たされるような、、何とも言えない気持ちなる。

 

 

彼女と一緒に過ごした時間はほんの数年だったけれども、それが人生に強烈なスパイスと彩りを与えてくれた。

 

1996年5月、

当時23歳だった僕は18歳だった彼女と

サンフランシスコのELSで出会い、

同じ大学に通い、同棲生活を経て、そして4年ほど付き合ったあと、別れて

それぞれの別の人生を歩み、、

彼女はフランス人と結婚して今はフランスに住んでいると風の噂で聞いている。

 

当時の僕はまだまだ若く未熟で彼女には本当に辛い思いばかりさせてしまった気がしている。

あれから30年近い時が流れ、同級生の中には孫もいるような年齢になり

彼らからすれば自分の娘が当時の自分や彼女の年を追い越しているのだから、、

それは人間的に成長して当たり前のことなのだが、、

できれば、もし今の精神的な成熟度を持って(もちろん今でさえまだまだ未成熟ではあるのだが、)あの時に戻れるのなら、もっともっと大きな包容力で彼女を支えられたのに。きっと僕ではない誰か他の人であったならもっと彼女は幸せな4年間を過ごせていたのかな、なんてそんな罪悪感めいたものも未だに感じるのだ。

そしてそんな僕と付き合ってくれて多くの思い出を作ってくれた彼女に心から感謝している。

 

彼女と別れて日本に戻った後は

女優さんの卵、モデル、女医、看護師、弁護士、同級生に会社の同僚、アメリカ人、カナダ人、遠距離恋愛、旅先の恋、そして最後に妻との出会いに至るまで多くの女性とお付き合いしてきて、当然一人一人と多くの思い出があるわけで、

その一つ一つの恋が人生に僕の人生に多彩な色どりを与えてくれているのだ。

また、お付き合いしている間は彼女達との間に数多くのドラマがあり、アメリカでの過去の恋をことさら大きく捉えることはなかったのだが、、

 

結婚して子供ができて日々充実した生活を送らせてもらってる中で

なぜ急にそんな30年前の恋人の幻影を追いかけて八代まで出かけたのか。

 

それは世の中がコロナが蔓延する1年前に

仕事でカナダのトロントに行く途中に、久しぶりにサンフランシスコに立ち寄り

そこで当時の彼女との共通の友人とご飯を食べた時に

その友人が

”Y(八代の彼女)の子供が病気で亡くなったと。もう何年も前のことだけど、その事は楓には知らせないように、心配するから、” と教えてくれたことがきっかけだった。

 

自分も人の親となって分かる事、自分の子供が自分より先に天国へ行ってしまう絶望感、この世で最も深い悲しみ。

そんなどうしようもない悲しみを彼女が背負っていたなんて。。

長女を亡くした彼女の気持ちに思いをはせると本当に本当にかわいそうで、さぞ辛かったろう、と僕も本当に悲しい気持ちになった。

そこから、なぜかいてもたってもいられない気持ちになってしまった。

もう心の奥底に大切にしまってあった30年近く前の思い出が一気に溢れ出してきてしまったのだ。

 

そこから数年が経ちコロナが沈静化してきて、

たまたま東京の友人と一緒に車で九州を数日旅行することになった。

 

大阪南港で待ち合わせて、そこからフェリーにBMWのオープンカーZ4を積み込んで、

鹿児島に向かった。

そして、友達とは鹿児島で別れた後、僕はひとりで熊本県に入り、八代市、天草市、熊本市、宮崎県の高千穂峡などをZ4で駆け巡った。

 

上の写真はその時に訪れた八代市の写真。

 

八代駅、彼女の母校付近を訪れて、この学校を卒業して、そしてこの駅から彼女はアメリカに旅立って、そして1996年5月、僕と出会ってくれたんだ、と思うと胸がいっぱいになった。

 

彼女と付き合っていた当時、もし将来僕らが結婚して子供が生まれたら、

楓と名付けよう、と話していた。

 

そして月日は流れ、僕は自分の娘に夏楓(かえで)と名付けたのだ。

その事は妻も知らない僕だけの秘密なのだ。

 

もうきっと会う事はない彼女へ。

 

ずっと元気でいてください。

そして幸せな日々を。