基準とは、その人そのものである。

と、最近思った。



極端な例を挙げてみる。


クラスの全員が50m走を7秒台で走ったとする。

彼らの基準はその数字になる。


地域の人がみんな英語と日本語を話せたら

彼らの中ではそれが当たり前になる。


かなり無理矢理ですが・・・


まぁ、数字などで表せるものは、平均があるので

もちろんちゃんとした基準があるのですがね。



で、やっと本題。


数字やら常識で表せるものではない「気持ち」「考え」はどうなるんだろう。


それは正に、周囲の人・環境だと思う。

その人たちがどのような考えをもっているかが重要。


その多い意見が基準となりやすい。


つまり、その人の出会い。関わってきた人すべて。

その人そのもの。




うーん、結論は必要ないか。

まぁ、そう思ったのよ。

友達に言われた。


確かに、同じことを言われても

なんとも思わない人もいるのに、

イライラしてしまう人もいる。


つまりは、もともと合わないんだな。





やっぱり近づくのはやめよう。

些細なことでやきもちを妬いてしまう。


嫉妬というには程遠い

小さな小さなやきもち。




私は、小さな人間だから

やきもちも小さくて済む。








.........いや、それはないなw





今がそうなだけです。




この瞬間、嫉妬と呼ぶには程遠い

小さなやきもちと、羨ましいと思う気持ちが

チクチク胸を刺す感じです。


じゃあ行動しろよ!と思う考えがチラッと横切るのですが

そこまでして私のことを一瞬でも思ってほしいかというと


別にそうでもない。





てか、思わない。







・・・・・・はぁ。









てか、だからこそ

小さな消えそうな

(てか明日には消えるであろう)

やきもちで済むんだろうな。

ニュースになるような酷い事件は私の身の回りに起こっていない。

でも、誰しもそんなことが起こったら

『なんで私が。こんな目に遭うとは思わなかった』

って、きっとそう思うんだろうな。


だけど、ワイドショーで取り上げられるような豪華な結婚式や

結婚や妊娠の話題も身の回りにはなく、


結局、ありきたりな日常を過ごしているだけなんだろうなー。


でも、物足りないわけじゃない。



これが幸せ。

憧憬や尊敬など、簡単な単語で現せてしまうような

単純で誰にでもある感情ごときで

人は自分自身の生き方や感じ方まで変えてしまうのだろうか。


『いつかあの人のようになりたい』

そんなことは叶うはずもない。

誰もが知っている。同じようには生きられないと。

そして、同じでないから憧れるということも。

しかし、憧れという感情は目標であり、例え手が届かなくても目の前にある。

それだけならいいが、例えばいつか幻想であったと気づいたとき、

その憧れを消し去る人もいるが、

一方で、目標としていた人が

常に目の前をチラつく残影となって自分を蝕んでいくことがある。


憧れは手の届かないものであるが、

追求しすぎるといつしか自分を縛り付けるものになりかねない。


『こうあるべき』 『こうであれ』 と、必要以上に思うことはない。



つまり、わけのわからない馬鹿丸出しの文を書いて

何が言いたいのかというと、


自分は自分であればいいのです。


誰かの言葉に救われるような普通の生き方でも構わない。

その辺の1000円くらいで売ってる生き方の本やエッセイなどを読んで

いろんな人の生き方を学ぶのももちろんいいこと。

だけど、そこに惑わされてはいけないと思う。

その人はその人。私は私で、あなたはあなた。それは変えられない。


だから、どうか迷わないでください。

そのままのあなたを認めてくれる人はたくさん居て

些細なことで悩んでしまうあなたを心から心配している人がたくさん居ます。


必要以上に考えるのではなく、

思ったまま、感じたまま、そのままで居てください。