よく選択を誤った時とか、嫌いな人と一緒に何かやるってなった時とかに、周りの人間に
「それがお前の運命だなww」なんて冷やかされる事があったりすると思うんですけど、嫌な思いしてる時に他人にそんな事言われたら反抗したくなりますよね。「俺は運命に抗ってやる!こんな現状良い方向に持ってってやる!」っていう感じで。
この場合運命というのは、自分に課せられた苦難を与えるもの、否定したいと考えるものと捉えがちですが、それではその運命に抗い、当初予測されていた運命を変えられた場合、それはどういう行為に言い換えられるでしょうか?
自分で運命を選び、切り開いた。
という事になるでしょう。
運命って嫌味のある意味合いで使う人が現実で目立つせいか、どうにも悲劇性を帯びている、否定すべき対象たるワードになっている気が、個人的にはします。
でも、自分の心が求めたもの、心がこうでありたいと望んだその現実が、運命。
あるゲームに惹かれたのも運命。
強い充実を感じるサークルに入ったのも運命。
好きな人が出来たのも運命。
現状がいやに感じられたのなら、どこかに今よりも心が満たされる場がある。その為に現状を否定しようとするのは、自分の運命を見出そうとしているからじゃないですかね。
運命っていうのは、自分の主体、感性で自由自在に選んでいけるもの、なんじゃないかなって僕は思います。
でも今まで好きになった、心惹かれた人が全員運命の人だったら、仮に告白して振られてきたとしたらおかしな話になりますよね。運命の人なら結ばれるはずだろう、フラれるはずがないだろう、と。
うーん、個人的意見なんですが、それはもっと大きい運命と出会う為の、試練の意味合いを持った運命、と考えてみてはいかがでしょう。
今現在、もしくは過去に、強く心惹かれた異性がいるとします。その人に好きになってもらいたい為に、外見を意識したり、振る舞い方を変えてみたり、異性へのアプローチの仕方を少しずつ学んでいったり。ウケのの良さそうな料理店を調べたり、ファッションやその人の好きな物について目を向けたりと。コミュニケーション能力を向上させる事なんかもそうですね。
たとえ思いが報われなくても、意中の誰かに好きになってもらう自分になる為に、自分のモテ度というか、人間力を地道に鍛えていっているわけです。その蓄積していった力は、いつか真の運命たる相手と結ばれる為に積み上げてきたものと仮定すれば、その人と出会うまでに好きになり、結ばれる事のなかった人は、いわば真の運命までの道のり、通るべくして通った道、なのかもしれません。その道を歩いて、本命の運命の人に出会える訳ですから。
理想論かもしれませんけどね。この理屈だったら誰もが満たされているはずで、離婚なんてある訳ないんですけど。
運命はとったもん勝ち、って解釈なら波風立たないかな?
長くなりましたが、自分の考えとしては、自分が心惹かれた何かの為に選択をするのが運命を切り開く事になる、そして運命は、いつの日か大きな運命と出会うまでの道で遭遇する、長い目で見れば小さい物だが、生きていく上で通っていく必要がある物、ではないかという事です。
勿論真理だなんて言いませんよ。夜中にラジオ聴きながらふと思いついた大学生の戯言ですからね。あくまで個人的意見です。
さて、すげー遅い時間。もう寝ましょ。
今日は9時おきくらいかな…?
