午前デイケア。ものすごく疲れた。今やっと起き上がって少し動けるようになった。やはり、家に帰ってから動けるようになるまでに三時間、四時間はかかる。そのあいだ、ほぼ何もできない。

 

さて、何をしよう。昨日は英語を少し勉強し、本を少し読んだ。何かを継続したいので、今日も英語、読書をしよう。今日はデイケアでゲーテを少し読んだ。

 

ぼくは何かに手を出しても、いつでも途中でやめられるように、逃げ道を作った上で何かに取り組んでいる。一度始めたことは最後まで貫徹するべきだという考えもある。やっぱり、それなりに深く、長い日数をかけて取り組まないと何も達成できないし、満足もできない。

 

何かを積み上げたいという気持ちがある。昔主治医にそのことを話したら、「仕事ではないのだから、積み上げなくてもいいと思いますよ」と言われた。つまり余暇の時間は疲れを取ったり休んだり、リフレッシュするためのものなので、何かを積み上げる必要はないのだと。でも、ぼくとしては趣味だって進歩を目指したい。主治医は負担にならない範囲で趣味に取り組むべき、という意味で言ったのだと思う。

 

他人と競争するのは避けるべきだと思う。健常者と競っても、勝ち目はないと思う。なので勉強にしても、昨日の自分よりも前進したいというような姿勢でやるのがいいと思う。健常者との違いはいろいろあるけども、まず体力が圧倒的に違う。

 

ぼくの英語力、数学力にしても、またギターやドラムの演奏力にしても、ぼくの同年代の健常者と比べてしまうと、冗談のようなレベルだ。正三角形の作図をしてこれはおもしろいと喜んでいるのも、健常者からしたら「まじか」というようなレベルのことだと思う。でも、レベル的には初歩的でも、その学習を通してどれだけの喜びや驚きを感じられるかというのが大事だと思う。ゾシマ長老ではないけれども、歓喜の感情を大切にしないといけないと思う。

 

ドストエフスキーの小説に出てくる人たちからすれば、人間が幸福を知り尽くすためには一日あればたくさんですよ(これはゾシマの兄のマルケールの言葉)、ということにもなる。幸福を知るためには、低レベルな学習だとかハイレベルな学習という区別はあまり関係がないのだろうと思う。自分はハイレベルな領域に到達したことがないので、想像でいっているんだけども。

 

ちょっと話はずれるかもしれないけども、さっき読んだ「ファウスト」の主人公のファウストも、いろいろな学問を究めつくしたが、その代わりに生きるたのしみが全くなくなってしまった、ということを言っていた。まだ最初のほうしか読んでいないので、ファウストがどのようにして生きるたのしみを獲得するのか、それはわからない。

 

といっても、例えばぼくの音楽を聴く耳は、自分で音楽を聴き始めた中学一年のころと比べると、成長しているように思う。なので何かしら進歩すればそれだけ楽しみも増えるということもいえると思う。けれども、中学生のときに体験した幸福感も、それはそれでよかった。それはそれで完全なものだった。

 

結局、長々と書いたけども、この記事でいいたいことは「初心忘るべからず」ということになると思う。進歩を否定しようとも思わないし、少しずつでも進歩したいけれども、現状否定をするのもよくないと思う。

 

頭の中が乱れていて、この記事の内容も混乱した頭の中を反映しているように思う。けれども、記録として残しておく。疲れも少しましになった。人それぞれ、ペースが違う。ぼくも自分のペースで前進しようと思う。