午前に中学の国語を一時間くらい勉強して、そのあと一時間くらい散歩した。昼を食べたあと、また10分くらいドラムを練習して、ギターを30分くらい練習した。

 

今日も胸のざわざわ感などが強く、この感じをごまかすためにいろいろなことを少しずつやっている。症状に振り回されている。ドラムをやっても、ギターをやってもこの胸のざわざわ感は軽くならなかった。いまイヤホンで音楽を聴いているけども、やっと少しだけざわざわ感がまぎれた気がする。

 

症状の苦しさをごまかすためにいろいろなことに手を出しているけども、そもそも自分はドラムをやりたいのか、ギターをやりたいのかどうか。硬直した確認強迫みたいになっているように思う。別に演奏できるようになりたい曲があるわけでもない、ただドラムに触れば、ギターに触れば症状が軽くなるんじゃないかと思って触っている。自分の症状が強いのはしばらくドラムやギターに触っていないからじゃないか、と考えることが多い。

 

自分が本当にやりたいことは何か。自分は何に心を動かされるのか、そのあたりをよく考えないといけない。学び直しの勉強はそんなに見当外れではないように思う。ドラムやギターは別に上達しなくてもいいと思っている。けれども勉強についてはやはり心残りがある。

 

自分には成長したいという気持ちがある、たぶん。どのような成長を望んでいるかというと、それはやはり楽器の上達ではなくて、読書とか勉強とか、そっちの方面での成長を望んでいるような気がする。

 

いまの自分を受け入れられないというわけでもない気がする。いろんな本に、自己受容のことについて書いてある。ただ生きているだけで尊いという考え方はよく見聞きする。村上春樹でいうと、ノルウェイの森のキズキはもともと素敵な部分をたくさん持っていたのに、自分のあちこちを修正しようとしてもがいていたのだと、それで自殺してしまった。

 

下のは直子の言葉。

 

「いつも自分を変えよう、向上させようとして、それが上手くいかなくて苛々したり悲しんだりしていたの。とても立派なものや美しいものを持っていたのに、最後まで自分に自信が持てなくて、あれもしなくちゃ、ここも変えなくちゃなんてそんなことばかり考えていたのよ。可哀そうなキズキ君」(村上春樹『ノルウェイの森』上巻、講談社文庫、261ページ)

 

ぼく自身は、世間のことに関して恐ろしく無知なので、そこを直すべきなんじゃないかと思っている。社会人として身につけておくべき最低限の教養だとか知識(そういうタイトルの本がありそうだ)、というものが自分には欠けている。社会に出て働いた経験がないから、当然といえば当然なのかもしれない。それでまず中学の勉強をやり直す、ということに最近取り組んでいる。

 

自分は今、見当外れで無意味なことをしているんじゃないかという疑問もしばしば頭によぎる。学び直しの勉強については、自分が他の物事をなげうって中学の勉強に取り組んでいることが、とても滑稽でもあるような気もするし、無駄なことなんじゃないかという気もする。周りから、世間からどう見られるかということばかり気にしていることで、かえって凡庸で滑稽な印象を振りまいているように思える。

 

いま、村上春樹のねじまき鳥クロニクルに出てくる笠原メイが、主人公に対して「私はあざのないねじまき鳥さんのほうが好きだ」というようなことを言っているのを思い出して、開いて確認してみた。久しぶりにねじまき鳥をいろいろ開いて読んでいると、今この小説を読むことが自分にとって必要なことのように思えてきた。

 

自分にとって何が大切なのか、よくよく考えたほうがいい。

 

どうせすぐに意見を撤回するのだろう、と思われるかもしれないけども、今は村上春樹を読み直してみたい、そう思っている。ノルウェイの森は今下巻の最初のほうを読んでいる。その気になれば、今日中か明日中にも読み終えられるだろう。それでねじまき鳥クロニクルを最初から読み直してみたい。村上春樹の長編を読み直す、というのはそんなに見当外れではないように思う。

 

家で村上春樹の本を読むのが上手くいかないようであれば、近所のモスバーガーにでも行ってそこで飲み物だけ頼んで本を読む手もある。昔よくやっていた。店に行って本を読む、というのはもう二年以上やっていないように思う。