精神科の通院終わり。四月から主治医が変わるらしい。ころころ変わりすぎなので、家の近くのクリニックなり精神病院なりに転院する手もあると考えている。ぼくは精神療法というものに期待をしていないので(自分の病気は精神療法では治らないと思っている)、話しやすい医師であればどこでもいいかなと思っている。でも話しやすい医師というのはそうそう出会えないのだろうか。でも病院を探すのも大変だなあ。

 

最近、岩波文庫版の江川卓訳のドストエフスキー『罪と罰』全三巻を買った。今までに新潮文庫版の工藤精一郎訳、角川文庫の米川正夫訳、河出世界文学全集版の米川正夫訳を読んだ。これまで、ドストエフスキーは米川正夫訳で『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』を読んだ。米川正夫の訳が自分に一番しっくりくるように思ったので。江川卓訳の『罪と罰』もぱらぱら中を覗いているとこれはこれでおもしろいかもと思って、買ってみた。

 

昨日の夜、久し振りに井筒俊彦『意味の深みへ』を開いて少し読んだ。

 

人間の真の実存的中心点としてユングの考える「自己」は、東洋では古代インドのヴェーダーンタ哲学などで「アートマン」の名で論議を重ねられたものに大体において該当するものでありまして、人間の内部で働く宇宙的生命の創造的エネルギーの原点とでも考えたらいいと思います。それは個人としての人間実存の中心であるばかりでなく、他者、すなわち自分以外の他のすべての人々、他の一切の存在者と自分とがじかに触れ合い、そこに緊密な間主観的統一態が即座に成立することを可能にする枢要な原理です。(井筒俊彦『意味の深みへ』岩波文庫、24ページ)

 

上にある、枢要な原理ということがすなわちミンコフスキーのいう「現実との生ける接触」であり、この原理が正常に機能しなくなるのが医学的には自閉といわれているのだとぼくは考えている。つまり、自分以外のすべての人々、他の一切の存在者と自分とがじかに触れあうということは、「現実との生ける接触の喪失」だとか自閉の反対、対極にある。こういった他者との生命的な接触ということをぼくはずっと考えている。ぼくがある時期からドストエフスキーの小説の人物、特にゾシマ長老の言葉を反芻しているのも、他者との心の触れあいということがぼくにとって問題であり続けているからだと思う。

 

その時です。兄さんが突然後から私の肩をつかんで、「君の心と僕の心とは一体どこまで通じていて、どこから離れているのだろう」と聞いたのは。(夏目漱石『行人』岩波文庫、364ページ)

 

『行人』の一郎の上の言葉は、ぼくにも理解できる。が、ぼくは一郎のように、誰かの肩をつかむようなことはしない。ぼくは一郎ほどには悲観していない。一郎は他者と、世界と自分とが一体となるような脱自的な経験をおそらくしていないのだと思う。ゾシマ長老の昔話で語られている、若きゾシマの兄のマルケールのような歓喜を経験していないのだと思う。

 

ぼくは音楽を聴いて心地いいと思うときがある。本を読んでおもしろいと思うときがある。そのような他者とのつながり方もあると思うし、それで十分と思っている。

 

今日の体重は68.1kgだった。今日もとても疲れた。明日の昼はラーメン屋で食べるか、マンダラ監修のバターチキンカレーを食べるかしようと思う。