昨日、『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の部分を読み直していて、とてもいいと思った。大審問官というか、昨日はその前置きの部分を読んだ。「反逆」という部分。

 

下に引用するのはイヴァンの言葉。

 

まだ時日のある間に、僕は急いで自分自身を防衛する、従って神聖なる調和は平にご辞退申すのだ。なぜって、そんな調和はね、あの臭い牢屋の中で小さな拳を固め、われとわが胸を叩きながら贖われることのない涙を流して、『神ちゃま』と祈った哀れな女の子の、一滴の涙にすら値しないからだ! なぜ値しないか、それはこの涙が永久に贖われることなくして棄てられたからだ。この涙は必ず贖われなくちゃならない。でなければ、調和などというものがあるはずはない。(ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』第二巻、岩波文庫、米川正夫訳、72-73ページ)

 

ぼくの考えでいうと、調和というのは他人や世界とつながるために必要な契機だ。つまり、ぼくの個人的な経験に照らし合わせて考えると、ぼくは18歳ごろから離人症といって、他人や世界が存在しているという実感を失うようになった。そこで、他人と積極的に話もした。引きこもりがちなぼくを外の世界に引っ張り出そうとする知り合いも何人かいた。でも離人症は精神の病気なので、外に出て人と話せば解決するというような簡単な問題ではない。どうしても医学的な介入が必要となってくる。医学的な介入か、あるいは宗教的介入か。

 

ここでの宗教とは、人間が一人で世界と向き合うというくらいの意味を指す。ぼくは一時期、20歳ごろから二年間ほど、精神科の通院をやめた。それも主治医と話し合うことなく、勝手に行くのをやめた。その二年間の間に自分がとった、離人症への対処法は、精神科の主治医を間に置くことなく、自分が世界と直に向き合うということだった。つまり、自分と世界との間に主治医のアドバイスだとか、精神薬の作用だとかが介在してしまうと、自分の経験する世界はフィルターのかけられた世界となり、純粋なものではなくなる。自分が現実感を取り戻すためには、世界と直に、裸で接触する以外にないのだとその当時は考えていた。

 

そういう世界と単独で向き合うという姿勢は、宗教的といってもいいんじゃないかと思う。そして、単独で世界と向き合うことで、ぼくは自己調和するのではないかと思った。自己が調和を取り戻し、自分の経験する世界もまた調和を取り戻し、調和した自分は調和した世界と調和した接触を取り戻すことができるようになるのではないか。

 

つまり、自己が円満となり、調和することで自己が世界と調和的に触れあうことができるようになったとき、ぼくは他人との間にも、心の触れあいを感じることができるようになるのではないか。

 

つまりぼくにとって、調和ということが、自己調和、世界調和ということが第一の問題だった。そして、ぼくがいうその調和というのは、おそらく神秘主義的な経験、いってみれば見神のような経験にもつながるのだと思う。

 

上に引用した『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンの言葉の中では、「そんな調和」は親から虐待され孤独に苦しんでいる小さな女の子の一滴の涙にすら値しない、ということを言っている。では、イヴァンは神秘主義的な自己一致的な調和をどのように考えているのだろうか。

 

ゾシマ長老は、一切は大海のようなものであり、他の一端に触れれば、もう一方の他の一端に触れるのだ、という意味のことを言っている。また、一人で死んでいく人たちのために祈りなさい、とも。

 

ぼくの考えでいうと、ぼくが他人のために祈るとして、その祈りが少しでも力を持つためには、その祈りが真摯なものでなくてはならない。真摯な祈りとは何か。真摯に祈るためには、自己が調和している必要があると思う。自己と世界、他人との間に断裂がある状態というのは言い換えれば孤独ということであって、他人のために祈るとき、この断裂を、孤独を克服しなければならない。

 

ゾシマ長老の昔話に出てくる慈善者ミハイルは、世界同胞が実現されるためには、人間がすべての人に対してほんとうに兄弟同様にならなくてはならない、人間の孤独時代というものが閉ざされなくてはならない、ということを言っている。

 

ともあれ、ぼくの考えでいえば、調和ということは、自分自身が幸せに円満に生きるためにも必要なことだし、結局ぼくは調和ということを、調和を実現することを考えることなしに幸せに生きることはできない。ぼくが調和的に生きられれば、結果的に誰かの役に立つこともあるだろう。人一人にできることには限界がある。上に引用したイヴァンの言葉にも、とても共感できるところがあるけれども、ぼくが実践しているのはゾシマ長老の立場だ。

 

僧侶はしばしば孤独のために非難せられる。『貴様は自分一人を救うために、僧院の壁の中に蟄居して、人類に対する同胞的奉仕を忘れたではないか。』とはいえ、果して誰が同胞相愛により多く努力しているか、それは少し経ったらわかることである。なぜなれば、孤独の中に籠居するのは我らではなくして、かえって彼ら自身であるのに気がつかぬからである。(同、209ページ)

 

つまり、ぼくは自分一人を救うために、自己調和ということの実践について考え、試行錯誤している。結果として、それが他人のためになることもあるかもしれない。