夏目漱石『行人』を読み終わった。主人公(語り手)の兄の一郎(実質の主人公か)がかなり病的で、読んでいてちょっとしんどくもあった。病名は何になるかわからないけども、現代で一郎のような人がいたら、精神科の受診を勧められるだろうし、向精神薬を出されると思う。それで薬物療法を受ければ、いくらか生きやすくなると思う。また、障害者として福祉などの助けを借りながら生きていけば、いくらかまでは苦悩も軽くなるんじゃないかと思った。

 

ドストエフスキーの小説に出てくる人なんかは、たしかに風変りだけども、精神病的には見えない。神がかりみたいな人も出てくるけども、精神科の治療で彼らがより幸せに生きられるのかどうか考えると、必ずしも受診は必要ないんじゃないかと、ぼくは素人ながらに思う。ドストエフスキーの小説の人物の風変りさは精神病的な風変りさであるというよりは、もっと人生的、人間的な風変りさなんじゃないかと思う。

 

一郎は苦しそうだ。例えばラスコーリニコフやイヴァン、ドミートリイの苦悩は本人たちからしてみれば、歓喜でもあるような苦悩でもあるように思う。つまりドストエフスキーの人物たちには神があるように思う。宗教的な神に通じているように思う。本人たちも言葉に出してそういうことを言っている。ドストエフスキーの人物は苦悩を突き抜けた歓喜を生きているように見える。

 

しかし一郎の苦悩は歓喜に通じることのできない苦悩であるように思う。なんでそういう苦悩になってしまうのか、ぼくにはわからないけど。悩みが自我のような意識的に表面的な部分にとどまっていて、無意識のような深層意識の深みまで到達していないということなのだろうか。

 

ぼく自身のことを言えば、ぼくはドストエフスキーの小説に出てくる人物や、井筒俊彦『神秘哲学』、西谷啓治『神と絶対無』で語られる神秘家のように、人生に対して肯定的だ。つまり、なぜ肯定的なのか、それは過去に一度ならず、疑いえない幸福を経験しているからだ。人生の真意義と確信できる経験をしているからだ。悩みが悩みでありながらそれを突き抜けて歓喜であるような経験をしているからだ。

 

一郎も「神とか第一原因」ということについて考えていた。しかし一郎は第一原因(トマス・アケンピスがいうような、永遠のことばとしての「始め」、つまり第一原理)を実見することがなかった。あるいは、実見しているにもかかわらず、自分はそれを一度も本当には見たことがないという思い込み、妄念にとらわれている。

 

見方によっては、ぼくのように疑いえない幸福を経験したと信じている人のほうが、妄念にとらわれているともいえるのかもしれない。一郎のほうが、正気なのかもしれない。でもどちらが幸福か。妄念的であっても、幸福であるほうがよいと思う。

 

一郎の、「君の心と僕の心とは一体何処迄通じていて、何処から離れているのだろう」という言葉は、ぼくの心を動かす。一郎の心は、理性的であるだけでなく、人間とつながりたいという思いを持っているという意味で、人間らしさを保っている。

 

兄さんは幸福になりたいと思って、ただ幸福の研究ばかりしたのです。所がいくら研究を積んでも、幸福は依然として対岸にあったのです。(漱石『行人』復刻版、569ページ)

 

兄さんは私のような凡庸な者の前に、頭を下げて涙を流す程の正しい人です。(同、595ページ)

 

一郎の自己内省、研究的態度に対しては、ぼくもいくらか共感できる。ぼくはミンコフスキー『精神分裂病』という本を読み、ここには自分のことが書かれてあると思った。一郎がミンコフスキーの本を読んだらどう思っただろうか。ぼくは自分の抱えている問題、つまり自分は他人の心に触れることができないという思いこみ、あるいは事実を、精神医学の術語の「自閉」という言葉で理解している。ミンコフスキーは分裂病の特徴について一言で言い表すならば、「現実との生ける接触の喪失」というのが適切であるというようなことを言っている。

 

ぼくはそういった部分での悩みを通過している。一郎の悩みも激しいものだけども、ぼくの悩みもそれに負けていなかったのではないかと思う。

 

ぼくは自分自身と深いところでつながることができれば、他人とつながることもできるようになるはずだ、と考えている。ぼくの問題は自己が分裂しているところにあると思う。つまり自己調和していない。レインのいうように、自己が二つの仕方で裂けている、つまり自分と自分自身とに間に裂けていて、また自分と外界や他者との間で裂けている。

 

ぼくの考えでいうと、自己が深い部分で一致すれば、世界とも一致できるのではないかと思う。比喩でいうと、自己の井戸を掘り進めていけば、深いところで水脈にあたる。その水脈を、他の同じように自己の井戸を深く掘り進めている人たちと、井戸の底の深いところで共有できるのではないか。

 

これは一つのナラティブ、物語理解に過ぎないだろうけれど、ぼくがこのような考えに支えられて生きていることは確かだ。妄念だといわれれば、その通りなのかもしれない、とも思う。

 

ぼくはどうすれば他者の心に触れることができるのだろう。そのことについてずっと考え続けてきた(一方で、この問題は考えないようにしている問題でもある。考えたところで幸せが増すわけではないと思うから)。現時点での結論としては、ぼくは世界といくらか接触していると感じるときがある。世界も他者の一部分、現われであってみれば、ぼくが世界と触れあっているということは、ぼくが他者の心に触れあっているということでもある。よって、ぼくが他者の心に触れることができる。そういうふうにぼんやりと考えている。

 

なのでぼくは人生に対して希望的だ。