神谷美恵子『生きがいについて』を久し振りに開いていたら、とてもいい文章がたくさんあった。その一部を下に紹介する。結構大量の引用だけども。

 

新しい道にどんな困難が伴おうとも、これ以外に自分の生きる道はないのだとわかったひとは、思い切って高いところからとびおりるような気持でそれをえらびとるほかはない。ティリッヒのいう「生存への勇気」をここでふるいおこしうるかどうかによって、その後の一生に天と地の差がおこる。この決断と選択と「賭け」の前に尻込みしたときには、いわゆる「実存的欲求不満」の根ぶかい種をまくことになり、多くの神経症や、「にせの生きかた」や自殺を後日にひきおこすことになる。(129-130ページ)

実存的欲求不満ということが、ぼくの問題なのだと思う。

死刑囚にも、レプラのひとにも、世のなかからはじき出されたひとにも、平等にひらかれているよろこび。それは人間の生命そのもの、人格そのものから湧きでるものではなかったか。一個の人間として生きとし生けるものと心をかよわせるよろこび。ものの本質をさぐり、考え、学び、理解するよろこび。自然界の、かぎりなくゆたかな形や色や音をこまかく味わいとるよろこび。みずからの生命をそそぎ出して新しい形やイメージをつくり出すよろこび。――こうしたものこそすべてのひとにひらかれている、まじり気のないよろこびで、たとえ盲であっても、肢体不自由であっても、少なくともそのどれかは決してうばわれぬものであり、人間としてもっとも大切にするに足るものではなかったか。

 

このようなことを彼に教えたのは苦しみと悲しみの体験であった。このようなことをわかってくれるひともまた深い苦悩を一度は通ったことのあるひとにほとんどかぎられていた。結局、人間の心のほんとうの幸福を知っているひとは、世にときめいているひとや、いわゆる幸福な人種ではない。かえって不幸なひと、悩んでいるひと、貧しいひとのほうが、人間らしい、そぼくな心を持ち、人間の持ちうる、朽ちぬよろこびを知っていることが多いのだ――。

 

こうして過去の体験からも、彼の持つ価値体系はいわばひとりでにすっかり変って来て、さかさまにさえなってくる。以前大切だと思っていたことが大切でなくなり、ひとが大したことだと思わないことが大事になってくる。(185ページ)

 

「人類の一員」にお互いがなるとき、そのときのみ、人種間の差別、階級間の差別、患者と「壮健さん」の差別はなくなりうる。それは愛生園での経験が教えるところである。マスローは、このような「ほんものの人間」、すなわち相対的なものにとらわれず、人間としての可能性をのびのび発揮しているひとびとを更にふかく研究して、精神療法や教育の理想像探求への指針とすべきであるとのべている。(193ページ)

 

ところで、神谷美恵子とドストエフスキーって重なる部分が多いと思う。ゾシマの年若い兄マルケールが「人生は楽園です」といっていたのも、上の神谷美恵子の文章と重なる。また、ドストエフスキーの小説には、不幸なひと、悩んでいるひと、貧しいひとがたくさん出てくる。

 

あとぼくは最近相対的なものばかりにとらわれていると思う。他の人を見てうらやましがったり、自分が劣った人間に見えてきたり、それをなんとかしなければと思ったり。でも他人と比較して競争しようとするのではなく、自分自身の問題と孤独に向き合わなければならない。

 

ともあれ、『生きがいについて』をちゃんと読み直してみたい。