昨日の夜寝る前に、睡眠剤の健忘でもうろうとした状態で書いた記事を削除した。その内容は、アメブロを見ていると改行が異常に多い文章を書く人が散見されて、それが読みづらいという内容。いや、正確にいうと読みづらくはないんだけど、まとめようと思えば数行にまとめられるだろうという文章を、数十行にわたって展開するような文章が散見されるので、それを揶揄するようなことを書いた。揶揄しているつもりはなく、なぜそのように書かなくてはならないのか、なぜ普通の文章にしないのか、という疑問を提起したつもりだったのだけど、まあそれは事実上揶揄のようなものになったのだと思う。

 

その記事のコメント欄で、読者の人から、記事を削除するように勧められたこともあり、そもそも昨日の夜中にそのような記事を書いたことを今日の朝知ってから、これは削除するべきなんじゃないかと思っていたので、削除することにした。

 

で、その読者の人のブログを見てみると、「他人の個性を認めない人は自分の個性も認められない」と書いてあった。それは当然、ぼくのその記事について言っているのだろう。そういわれてみれば、ぼくが改行の異常に多い文章を、自分にはない、他人の個性として受け入れることができていなかったということになるだろう。自分には理解できない意図をはねつけるのは簡単であり、そのような自分には理解のできない他人の意図を理解しようとする度量がぼくには足りていなかったのかもしれない。ぼくとしては、そのような改行の異常に多い文章を書く人を非難する意図はなく、ただ単純に、そのような文章を書く意図はなんなのか、疑問に思ったということを書いただけなのだけど、馬鹿にするような響きが記事に出てしまったのは確かだと思う。響きというか、そういう自分に理解のできない他人の意図をジョークにして笑いものにしたのは、よくなかったと思う。

 

その問題の記事をすぐに削除する気になれなかったのは、表面を取り繕っても、そのような記事を書かせたのは、ぼくの中に内在するものであるから、根本的な解決にはならないだろうと思ったから。いくら健忘のさなかのもうろうとした状態で書いた記事とはいえ、むしろそのような状態で書いた記事だからこそ、ぼくの本心が表れているのかもしれない。村上春樹の『多崎つくる』にも書いてあったけど、記憶を隠すことはできても、歴史を消すことはできない。問題の所在を明らかにしなければ、記事を消しただけでは意味がない。

 

まず、個性という言葉は、ポジティブな意味づけの言葉だ。個性といえば、尊重するべきものだとされる。ぼくは自分には理解のできない他人の意図を、個性とは捉えずに、過ちとして捉えることがある。これは誰でもそうだろう。公衆の面前で素っ裸になって走り回る男のその行為を、個性と見るか、過ちと見るかの違いだ。ぼくは改行の異常に多い文章を書くという行為を、過ちとして捉えた。しかし、世の中にはそのような行為を個性として捉える人もいるらしい。犯罪は個性的な行いだろうか。人の気持ちを踏みにじる行為は個性的と捉えられるだろうか。人を不快にさせる行為は、個性的と捉えられるだろうか。

 

とはいえ、くだんの改行の異常に多い文章を書くという行為は、犯罪でもないし、人の気持ちを踏みにじる行為でもないし、人を不快にさせる行為でもない。ただ、「なぜこのようなやり方を採るのか」という疑問を抱かせるだけであって、無害なものだ。だから、これは個性と捉えることが可能だ。

 

まあいずれにせよ、ここに「個性」と「過ち」という二項対立が浮かび上がってきた。自分には理解のできない他人の意図を「個性」として捉えるか、「過ち」として捉えるか。個性であるならば、それは理解しようと努力するだけの価値はあるものだ。しかし、過ちであるならば、努力して理解するだけの価値もないだろう、おそらく。