さっき、久々に長文ブログを書いてたらしっかりバッサリ消えました。
でも、やっぱり書きたいので
再挑戦。
身体のバイオリズムってのは
ヒトそれぞれありまして、
あたくしめの場合は
12月から1月初旬にかけて
四割減の体力になります。
こんな時は静かに過ごす。
これが一番の薬です。
ホンマに今回はは特に大人しく過ごしました。まぁ、グータラ生活ともいいます。
こういうバイオリズムは関係なく、万年何となく不調やったりする原因とかについて話を書こうと思います。
特にこの暴露コロナがきっかけとなって自分に誤魔化しが効かなくなってる思います。
そのひとつが
自分自身が自分に向けた
未必の故意 です。
ジワジワ地味に浸透してるんですよ。
以下、ネットから拝借しました。
未必の故意は法律用語であり、「行為者が自らの行為から罪となる結果が発生することを望んいるわけではないが、もしそのような結果が発生した場合それならそれで構わないとする心理状態」を意味する概念である。「未必的故意」ともいう。
あえて大雑把に「未必の故意」を分かりやすく言うとすれば、「もしかしたら、これで誰かが死ぬことになるかもしれない、でも、まあ別にいいや」という心境が、未必の故意である。
この『誰かが…』が自分自身になってるんです。
ヒトの振舞に対するまぁいいかは
良いとして、
自分自身の振舞に対してのまぁいいかは未必の故意に当たることがあると思います。
例えば
何か自分が何かやってしまったことについて
あ、やってしもた。
(様子を見る)
まぁ、気にしたはらへんみたいやし、
謝ったり、何もせんでも。
まぁ、えぇか。
こういうことです。
誰しも、1度はこんなことがあると思います。
あ、やってしもた。
誰も見てなくても
自分が見てるし知ってるんです。
少しでも引っ掛かりがあるならば
その場で対応することだと思います。
相手が気にしてなさそうにみえても、自分が気になったならば、
何かアクションおこしてみる。
ちょっとしたことでも
気になったならば、ほっとかないことです。
その積み重ねが運命の分かれ道にきた時の進路を決めることになると思います。過言やないです。
禍根の種は残さず、ほっておかないこと。
自戒です。