寛永寺 | 徒然草子

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寛永寺は、東京で学生時代を過ごしていた私もよく東京国立博物館などを訪れた際によく立ち寄っていた寺院であり、個人的な思い出の場所の一つでもある。
とは言え、訪れたことがある人ならば、分かるが、今日、寛永寺の多くの諸堂は上野公園の敷地内に散在しているという状況であり、伽藍としての纏まりを欠いている有り様である。従って、寛永寺を訪れたというよりかは、寛永寺の各々の堂宇に個別に立ち寄ったと言った方が当たっているかも知れない。
比叡山延暦寺に倣って当寺を開山した慈眼大師天海もかかる状況を予想し得なかったであろうし、実質的に天台宗の中心寺院として比叡山延暦寺より優位に立ち、かつ徳川将軍家の菩提寺の一つとして栄えていた江戸時代の人々も今日の現況を想像だにしなかったであろう。
だが、諸行無常の摂理と言うか、或いはあまりにも政治に近すぎた故と言うか、幕末から明治にかけての混乱期の最中、伽藍の多くは失われ、又、東照宮は独立し、五重塔は寛永寺の所有を離れ、かつその境内地は公園の敷地に組み込まれ、今日に至っている。
さて、かかる寛永寺は延暦寺に倣って薬師如来(※東照権現徳川家康の本地仏でもある。)を本尊とする根本中堂を擁するが、恐らく、人々がよく足を運ぶ堂宇は当該堂宇ではなく、両大師堂、清水観音堂、不忍池の弁才天堂であろう。その所以は、根本中堂が徳川将軍家の菩提寺としての当寺のフォーマルな中心堂宇であるが故か、敷居も高く、又、当該堂宇が長らく公開されなかった事に加え、公園の敷地から、若干、外れている事も手伝っている様に思われるのに対して、上掲の諸堂は人々に開かれ続けてきたから、それらの諸堂の本尊への信仰を集め易く、又、両大師堂を除けば、公園を散策する人々の回遊経路に近接しているからであろう。
ここ数年、私はかかる寛永寺を訪れていなかったが、今度、東京に行った折には、久々に訪れてみようかなと、ふと考えてみた次第である。